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日本のヴァイオリン奏者(1908−1983) ウィキペディアから
黒柳 守綱(くろやなぎ もりつな、1908年6月20日 - 1983年4月30日)は、日本のヴァイオリン奏者。
妻は黒柳朝、息子に黒柳紀明、娘に黒柳徹子と黒柳眞理、兄は松竹蒲田撮影所の初代所長の田口桜村、ジャーナリスト・カメラマンの田口修治。
医者でカトリック本所教会の長老を務めていた田口潔矩(東京府本所区相生町5-21 小児科医)の四男として生まれたが、8歳の時に父親が亡くなり、兄の田口修治とともに12歳で三越呉服店で働き始める[1][2]。1920年(大正9年)に三越少年音楽隊へ入隊する。同楽隊は吹奏楽団であったが、宮内省より東儀哲三郎の指導を仰ぎ、管弦楽も演奏するようになりヴァイオリンを学ぶ[3]。1922年に三越少年音楽隊は解散した。
官立の東京音楽学校関係者(上野派)に対して、在野派(非上野)のハタノ・オーケストラを経て、山田耕筰の交響楽運動により日本交響楽協会へ進む。同協会の山田耕筰派、近衛秀麿派の分裂時には山田派に付いたとされる。1932年頃、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」の昼のステージに出演、折からブームとなっていたタンゴを演奏した[4]。
守綱は母方(妹と二人姉妹、妹みよは吉村家へ)の黒柳家の養子となり、黒柳姓となる(時期不明)。
1937年1月、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターに就任する[5][6]。1942年より寺田豊次、田中秀雄、橘常定とともに東京弦楽四重奏団としても活動し、毎日新聞優秀演奏家賞を受賞する。
妻の黒柳朝(旧姓・門山)とは、彼女が東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科の学生時代にベートーヴェンの『第九交響曲』の公演を共にしたことで知り合い、それから間もなく当時住んでいた住居の1階にあった喫茶店に連れ込み、夜遅くまで話し込んだ末に「家に帰れないだろ?」と自分の住居に連れ込み、そのまま結婚に至ったと、娘の徹子、妻の朝が語っている[7]。三男二女(徹子、明兒、紀明、眞理、貴之)をもうけるが、長男は夭折している[8]。
1942年には齋藤秀雄らとともに満州国へ派遣され、満州国建国10周年を祝して日本から派遣された演奏家と「新京音楽団」の楽団員で組織された「満州国建国十周年慶祝交響楽団」(山田耕筰指揮)による慶祝楽曲演奏会に第1ヴァイオリンで参加している[9]。
東京放送管弦楽団に属していたが、1944年に召集されて満州に出征し、敗戦後にソ連に抑留される(シベリア抑留)。シベリアで抑留中である旨が新聞紙上で報じられるも、シベリアに留め置かれ、同じく抑留されていた合唱指揮者の北川剛、チェリストの井上頼豊らとともに「沿海州楽劇団」としてハバロフスク地方沿海部の日本軍捕虜収容所の巡回・慰問にあたる[10][11]。1949年末に帰還し、東京交響楽団のコンサートマスターに就任する[6][8]。
上記のように、新交響楽団、東京交響楽団といった、当時の日本における主要オーケストラのコンサートマスターを歴任している。また、レコーディングスタジオの演奏家としても力を発揮し、『ゴジラ』シリーズ第1作となる1954年公開の映画『ゴジラ』では作曲家・伊福部昭の要望に応じて録音に参加しテーマ音楽を演奏している[12][13]。東京弦楽四重奏団(1942年結成)を率いていた頃、チェロを齋藤秀雄が担当したこともあり、斎藤の弟子で当時高校生だった小澤征爾によると、斎藤がオーケストラを指揮した際は黒柳がコンサートマスターを務めていたという[14]。
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