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島根県津和野町にある神社 ウィキペディアから
鷲原八幡宮(わしばらはちまんぐう)は、島根県鹿足郡津和野町鷲原にある神社(八幡宮)。津和野町の南部、津和野城跡の南西麓に位置する。宗教法人としての名称は「八幡宮」である[1]。
社伝によると、平安時代の天暦年間(947年-956年)に山根六左衛門尉という郷士が豊前・宇佐八幡宮を勧請したのにはじまり、その後、弘安5年(1282年)吉見氏の家祖・頼行が能登国から石見国木部村(現・津和野町木部)への入国に際し、鎌倉鶴岡八幡宮から勧請し、3代・直頼が嘉慶元年(1387年)に現位置に社殿を建立して遷座したと伝わる[2]。
天文23年(1554年)に陶晴賢による津和野城攻め(三本松城の戦い)により、鷲原八幡宮を含む周辺の寺社は焼失するが、永禄11年(1568年)に吉見正頼が社殿を再建する[3]。正徳元年(1711年)に津和野城主・亀井茲親により、大規模な改修が行われ拝殿などが建てられた[3]。
吉見氏断絶後も津和野の守護神として崇められ、藩政が敷かれた後は坂崎氏、亀井氏の歴代藩家から崇敬され、亀井氏の時代には祇園社(現・弥栄神社)、武霊社(現・津和野神社)と合わせて津和野藩の3大社とされ、その筆頭に位置づけられていた[2]。
令和3年後半から保存修理事業が行われ、数年かかる予定である[4]。
他13柱
現在の社殿は、永禄11年(1568年)に吉見正頼が再建した本殿と楼門を基本とし、正徳元年(1711年)に津和野城主・亀井茲親により拝殿が建立され、手が加えられているが、本殿と楼門は、細部の様式や技法に室町時代後期の特徴をよく示している[4][5]。本殿、拝殿、楼門が一直線上に並び、拝殿と楼門の間に方形の池を設け潔斎橋が架けられているのが特徴である[3][4]。
本殿は石垣を築き一段高くなった敷地に建ち、拝殿との間には石階がある[3]。三間社流造、杮葺で、正面に向唐破風造の向拝を設け、外周に覆屋を構える。庇部分を室内に取り込み、周囲を間仕切る外陣[注 1]とし、奥の身舎[注 2]部分を内陣とする[3]。外陣は正面中央間を両開き板扉とし、他の柱間は蔀とする。内部は一室で、板敷の床、棹縁天井[注 3]を張り、妻飾は豕叉首(化粧束)で、猪の目懸魚を吊る[3]。
楼門は一間一戸の四脚門で、屋根入母屋造茅葺、正面に片流れの檜皮葺の向拝を付ける[3]。楼門の両脇には桁行二間、梁間二間、杮葺の切妻造の翼廊が付く。下層は、土間で開放され、上層は、桁行三間、梁間二間で板敷、周囲に刎高欄[注 4]付の榑縁[注 5]を廻す[3]。左右翼廊は、内部を梁行と格子戸で2室に仕切り、床は板敷で、天井は化粧屋根裏で、奥の室の随神像は門に向かって対向して安置される[3]。
拝殿は、入母屋造で破風に猪の目懸魚を吊る[3]。鉄板葺き、桁行(間口)3間、梁間(奥行)2間。内部は畳敷きの1室で、柱間装置は格子戸および格子窓とする。南正面に擬宝珠高欄付の太鼓橋の潔斎橋、東側面に神饌所が付属する[3]。拝殿と楼門の間に両下造[注 6]の屋根が架かる[3]。
楼門前に大島松渓作の狛犬が立ち、客社天神前の石碑に三浦紫畹(しえん)筆の梅の絵、背面に大国隆正の父である今井天柱(護斎)の碑文が刻まれている。
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