高階成忠
平安時代中期の公卿。姓は真人のち朝臣。従二位・式部大輔 ウィキペディアから
平安時代中期の公卿。姓は真人のち朝臣。従二位・式部大輔 ウィキペディアから
高階 成忠(たかしな の なりただ)は、平安時代中期の公卿。姓は真人のち朝臣。高階師尚の孫。宮内卿・高階良臣の子。官位は従二位・式部大輔。高二位と称す。
文章生から、大内記・大学頭・弁官といった文官や、能登権守・大和守などの地方官を歴任。永観2年(984年)花山天皇が即位すると、成忠は春宮・懐仁親王の東宮学士を務める。寛和2年(986年)懐仁親王の即位(一条天皇)に伴い、東宮学士の労により従四位上から従三位に叙せられ、高階氏として初めて公卿に列した。
正暦元年(990年)娘の貴子と摂政・藤原道隆との間の娘である藤原定子が一条天皇の中宮に冊立されたことから、翌正暦2年(991年)7月に従二位に叙せられ、正暦3年(992年)9月には真人から朝臣へ改姓した。同年10月に出家し法名を道観と称す。最終官位は従二位行讃岐権守。
長徳元年(995年)4月に娘婿であった道隆が没し、その後継を巡って外孫の内大臣・藤原伊周と権大納言・藤原道長が争い、道長が内覧・右大臣として執政の座に就く。この状況の中、8月に成忠は陰陽師をして道長を呪詛させてい[1]。翌長徳2年(996年)に発生した長徳の変を通じて藤原伊周やその弟の権中納言・藤原隆家が流罪となるが、成忠は出家していたため連座を逃れた。
非常に学才が高かったが、性格が普通でなく気味が悪く恐ろしげで、人々から厭わしがられていたという[2]。
娘・貴子のところに通っていた道隆を垣間見て、必ず出世する器と予見したという逸話がある[3]。
注記のないものは『公卿補任』による。
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