高山トモヒロ
日本の漫才師、お笑いタレント ウィキペディアから
日本の漫才師、お笑いタレント ウィキペディアから
高山 トモヒロ(たかやま ともひろ、1968年〈昭和43年〉7月10日 - )は、日本の漫才師、お笑いタレント。本名:高山 知浩(読み同じ)。漫才コンビ「ケツカッチン」の一人。所属事務所は吉本興業。大阪市浪速区日本橋生まれ、大阪府大東市住道育ち。左利きで血液型はA型。
高校時代は高校野球の名門・大阪市立桜宮高等学校の野球部に在籍し、外野手として活躍。中日、阪神で活躍していた矢野燿大とは同期で、クリーンアップを組んでいた。プロを目指していたが誘いは無く、スイミングスクールに就職。しかし、半年で退職した。
その後、高校野球部時代の親友・河本栄得の誘いによりNSCに7期生として入学。同期には雨上がり決死隊、矢部美幸(ナインティナイン矢部浩之の実兄)、なるみ(元トゥナイト)などがいる。
1988年にお笑いコンビ「河本・高山」を結成し、ツッコミを担当した。NSC卒業と共にコンビ名を「ベイブルース」に改名。上方お笑い大賞やABCお笑い新人グランプリなどで数々の新人賞に輝き、CDリリースやレギュラー番組の獲得など、当時の若手有望株の筆頭に躍り出た。
順調な芸能活動を送っていた1994年10月31日、相方の河本が劇症肝炎で急死。河本の告別式では、「皆さん、天国に向かって『河本のアホ!』と叫んで下さい。本人はそれが一番喜ぶと思います!」と悼辞を述べ、周囲の涙を誘った。河本の死後に放送されたラジオ番組では、「河本のアホ。安らかに眠ってください」とコメントした。
漫才コンビとしての活動は永久休止を余儀なくされ、しばらく「ベイブルース高山」の芸名で『ビデリンが行く!』の司会などピン芸人としての活動を続けた。しかし、河本の死のショックは大きく、露出は激減していき、心身共に荒んだ日々を送っていたことを自らの著書「ベイブルース 25歳と364日」内にて述べている。河本の死後も「ベイブルース」の名を外さなかったのは、「ファンのみんなに『ベイブルース』を忘れないでいて欲しかったから」という胸の内を後に明かしている。
転機が訪れたのは2001年9月18日。営業先で、清水圭・和泉修(圭・修と略称)を正式に解散したばかりの和泉修からの誘いを機に、漫才コンビ「ケツカッチン」を結成。以後は漫才ライブへの参加など精力的に活動するようになる。また、コンビ活動に伴い、個人としてもかつての輝きを取り戻しつつあり、現在でも舞台や関西のテレビ番組などに出演している。ケツカッチン結成にあたって「ベイブルースは解散します」と正式に公言した。コンビ結成から12年目のことだった。
私生活では、NSC時代の同期である2歳年上の夫人との間に3人の娘がいる。なお、夫人と結婚したのがNSC在籍時のため、結婚していることをしばらく伏せていたという。長女はチアリーディングの日本代表に選ばれ世界一の一員になるなど運動に才を見せている[1]。次女はNSC30期生の光永(ひなた)で、共演することもある[2]。
ケツカッチン結成以前の高山の出演状況については、ベイブルースの項目を参照のこと。
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