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『項羽と劉邦』(こううとりゅうほう)は、司馬遼太郎の歴史小説。楚漢戦争期を舞台に、鬼神のごとき武勇で秦を滅ぼした楚の項羽と、余人にない人柄で人々に推戴され漢帝国を興した劉邦を描く。
1970年代半ばより数度訪中取材し執筆された。勇猛さでは不世出の武人といえる楚の項羽と、戦下手だがその人柄によって周囲を賢人に恵まれ最後には天下を手にした漢の劉邦。秦末の始皇帝の死から書き起こし、2人の英雄を軸として数多の群像の興亡を語り、項羽の死を最後に筆を置いている。
雑誌連載時の題名は『漢の風、楚の雨』(かんのかぜ そのあめ)で、単行本刊行に際して変更された。「漢の風」とは劉邦に『大風の歌』という詩が残っているとともに、漢が本拠とした中原の黄土地帯を吹き上げる乾いた風塵を連想して付けられ、「楚の雨」とは雨量が多く多湿な楚の風土を表したものである。司馬は、揚子江周辺で暮らしていた稲作集団である楚とは、黄河流域で形成された中国文明にとって最後の異質文化を持った異分子であり、この楚人達が項羽によって率いられて大陸を席巻したことにより楚人の稲作と湖沼の文化が投げ込まれ、このことが多民族多文化が混淆して成立した中国文明にとっての最後の総仕上げとなり、「汎中国的なものへの最初の出発点」となったと評している。
数百年に一度大規模な飢餓に襲われることが宿命であった中国の歴史において、英雄とは人々の食の保証ができる者であり、そうした力のある者が自然に王や皇帝に推戴されて王朝を開き、その能力を喪失すれば新たな王朝に倒されるのを常としてきた。司馬は、中国政治においては食を保証すること、少なくともそうした姿勢を取ることが第一義として置かれたため、そのような状況が中国史に「ありあまるほどの政治哲学と政策論を生産」させてきたと論じている。翻って日本では、中国のように国中が食を求める飢民で渦を巻くなどといった状況はかつて起こったことがないために、政治哲学・政策論の過剰な生産が起こらず、また英雄の概念も中国とは異なるため「中国皇帝のような強大な権力が成立したことがないということについても、この基盤の相違の中からなにごとかを窺うことができそうである」と評している[1]。
史上初めて大陸を統一し、帝国という空前の巨大権力を地上に現出せしめた秦の始皇帝。しかしその絶対権力の苛烈なまでの行使は民を極限まで疲弊させ、国中に怨嗟の声が満ち満ちた。やがて始皇帝が没すると、陳勝・呉広の乱を皮切りとして圧政に耐えかねていた民衆の不満が爆発し、各地で無数の反乱が隆起することとなる。江南の楚の出身の項羽は、国を秦に滅ぼされて以来復仇の念を抱きながらも呉中で雌伏していたが、反乱隆起の報に接するや叔父の項梁に従い動乱の渦中に身を投じた。項梁はその知略で旧楚の王孫を擁して楚を再興するものの、ほどなく秦軍は巻き返しを図り章邯将軍を核として反乱の鎮圧に本格的に乗り出した。項梁は章邯の巧みな戦術に敗れて命を落とし、跡を継いで楚軍の頭目となった項羽は叔父の弔い合戦を秦軍に挑むべく軍を動かす。その軍勢の一隊には沛公・劉邦がいた。元は田舎町のごろつきで何の能もない無頼漢だったが、動乱の中で沛の長として担がれた男である。
中原は沸騰し、楚と同様に戦国期の旧王国がかつての旧称を蘇えらせて割拠し始めていた。王国間は互いに同盟し秦打倒を叫んで連携を深めていたが、章邯率いる秦軍の巻き返しを目の当たりにしたことで大いに動揺した。その無類の軍略には何人も太刀打ちできないよう思われたが、しかし項羽は鬼神が気を吐くような勢いでこれを打ち破り、秦の主力軍に壊滅的な打撃を与えた。すでに虎の如き猛将として知られた項羽だったが、章邯をも下したことでその名は天下を圧するものとなる。全反乱軍の盟主の座に就いた項羽は、いよいよ関中に押し入り帝都・咸陽を攻めるべく西進を始める。関中は天嶮に囲まれた要害の地で攻略は難事であるように思われたが、しかし別働隊を率いて一足先に関中に進軍していた劉邦はこれを突破し、咸陽を制圧することに成功する。得意になった劉邦は、軽率にも関中王になろうとして関中への入り口である函谷関を塞ぎ、項羽の逆鱗に触れてしまう。項羽は憤激するものの、縮こまって一心に詫びを入れる劉邦の姿を見るや意気を削がれ、つい鷹揚に許した(鴻門の会)。沛のごろつき上がりの男など生かしておいた所で害はないと高をくくった結果であったが、しかし項羽は劉邦という存在を見誤っていた。なるほど、劉邦は政略の才も軍略の才も無きに等しい一介の無能人であったが、家臣の心を強烈に惹きつけて離さぬ余人にない人望があった。劉邦の軍勢とは、劉邦という一個の「虚」が頂上に寝転び、配下の将達がその「虚」を埋めようと懸命に知恵を絞るというところに不思議な強さがあった。劉邦を斬ると息巻く項羽の気力をも萎えさせるようなその特異な人格的魅力によって士卒を結束させながらも劉邦という存在はがらんどうの「虚」であり、逆説的ながらその「虚」の下でこそ将達はその能力を最大限に発揮する。賢者は知恵の限界が自身の限界となるものの、「虚」の存在は幾人もの賢者をその中に抱えて用いることができる。難攻不落の関中の攻略に成功したのも配下の進言によるものであり、例えるならば宰相の蕭何、軍師の張良などの稀代の能臣達が劉邦という巨大な杯を支えてその中になみなみと酒を注ぐというような、世にも奇怪な構造を備えていることを項羽は見ぬくことができなかった。
ついに秦は滅びた。天下は戦国期の封建制に戻り、滅秦の盟主である項羽によって各地は諸侯に分封された。項羽自身は「西楚覇王」と号し、楚北方の彭城に居を構えた。一方、劉邦は西南の漢の王に封じられるものの、漢は峻険な山々に隔絶させられた僻地であった。とはいえ高峻さえ乗り越えれば関中へ攻め込むことは容易であり、部下の進言を受け入れた劉邦は行動を起こし、関中を制圧して秦の累代の王都を手に入れる。項羽の行った論功行賞は甚だ不公平であり、天下の諸侯で満足している者はほとんどいなかった。やがて斉や趙なども次々と反乱を起こして項羽は鎮圧に忙殺されることとなり、今こそ好機と見た劉邦は項羽の本拠地である彭城を目指して東進を始めた。反乱者が出た土地は女子供まで残らず虐殺するという項羽の行き過ぎた所業はそこここで反感を買っており、漢軍の到来を待ち望む声は多く劉邦はさほどの苦もなくその勢力を拡大していった。やがて洛陽に入城した劉邦が正式に項羽の討伐を宣言すると、天下の諸侯は群がるように参集し、反楚同盟軍は実に五十六万もの巨軍に膨れ上がった。折しも項羽は各地の反乱の鎮圧にかかりきりになっている最中であり、巨軍が雪崩れ込むや空き家同然の彭城は呆気無く陥落した。
しかし、項羽は彭城陥落の報を聞くと直ちに全軍から三万の兵を掻き集め、自ら直率して彭城へと駆け戻った。狂憤を発した項羽の怒気が憑ったかのような楚軍の軍威に慄いた同盟軍の面々はたちまち恐慌に陥り、一人として踏みとどまることなく彭城から逃げ散った。劉邦も辛うじて難を逃れるものの、五十万を超える大軍勢はわずか三万の楚軍に潰乱させられてしまった(彭城の戦い)。どうにか体制を立て直した劉邦は迫り来る項羽と対峙するものの、とはいえ剽悍さでは無類の項羽と戦下手の劉邦ではもとより勝負にならない。諸侯たちも項羽を恐れて一転して楚軍に靡いてしまい、漢軍が劣勢を挽回することは極めて困難であった。漢軍は中原中央を転戦して戦うものの楚軍の猛威を振り払うことはできず(滎陽の戦い)、劉邦はやむなく黄河の北岸へと落ちのびる。北方で遊撃部隊として展開していた武将・韓信を督促して諸国の平定を急がせ、今一度体勢を整えると劉邦は再度黄河を渡って南下した。いくつかの城を落として局所的な勝利をおさめるものの、劉邦の南下を知った項羽は再び軍を率いて劉邦のもとへ殺到した。漢軍の士卒は大潰乱の悪夢を思い出して震え上がるものの、しかし窮迫した事態は劉邦に天啓を与え、一帯の食料を賄う巨大穀倉庫である広武山を要塞化して立て籠もるという奇想天外な策を閃かせる。劉邦にとって一世一代ともいえるこの妙策は当たり、楚軍は山を包囲しながらも次第に飢え始め、広武山の対陣は籠城側が飽食して攻囲側が飢えに苦しむという奇妙な籠城戦となった。しかし劉邦が負傷したことによって漢軍も優位を保つことができなくなり、楚漢で天下を二分することを条件に劉邦は講和を申し出、項羽もこれを受け入れる。
和睦は成った。広武山における一年余の睨み合いの末、楚漢両軍は共に軍を引くことと決まった。楚軍は彭城への帰途につくものの、とはいえ項羽はしばし兵を休ませた後に再び軍を起こし、次こそは漢軍を木っ端微塵に討ち砕く腹づもりでいた。そのような項羽の魂胆を察した劉邦の謀臣達は、劉邦に楚軍を追撃すべきと献言する。長い滞陣を経て楚の兵達は飢え、軍中には不満が渦巻いて脱走者も出ている。また、韓信の活躍によって北方諸国は次々と平定され、劉邦が各地に展開させた小部隊も勢力を拡大させており、粗漏でありながらも楚軍に対する包囲網が整いつつある。劉邦が弱者故に打った数々の布石が、ここに来て芽を吹き始めていたのだった。楚軍が英気を養った後に再び攻めてこられては到底勝ち目はなく、項羽を滅ぼす絶好の機会は今この時を逃しては二度と巡ってこないと献言された劉邦は決断を下し、全軍に追撃戦を命じる。約定破りに憤慨した項羽はこれを迎え撃ち漢軍の襲撃を撥ねつけるものの、しかし楚軍はなおも強悍さを失わないように見えてその内情は疲弊の極みに達していた。兵の脱走は後を絶たずに将の間にまで漢軍に寝返る者が現れ始め、戦いが長引くにつれてかつて満天下に並ぶもののなかったその軍容はみるみるうちに縮小していった。やがて華北の韓信らの軍勢が南下して項羽の本拠たる彭城を取り囲み、これを契機に日和見を決め込む諸侯も次々と漢軍に恭順し、楚軍は天下に寄る辺のない孤軍となった。追い詰められた項羽は南部の垓下に野戦築城し、急ごしらえの城に籠って籠城を始める(垓下の戦い)。項羽は折にふれて兵を出すものの、「大軍に兵法無し」の言葉通り圧倒的な軍勢を持って城を包囲する漢軍には到底太刀打ちができない。さすがの項羽も自身が生死の境に立たされたことを自覚するが、とある夜、寝所で伏していると何処ともしれずに楚の歌が聞こえてきた。城外から聞こえる故郷の歌は、漢軍に寝返った楚軍の兵たちが唱じるものであった。城の四面がことごとく楚歌で囲まれていることを知った項羽は[注 1]、ついに己の運命が極まったことを悟る。
楚歌を聞いた項羽は城中の士卒を集めて酒宴を開き、これまでの労をねぎらった後、小軍勢を率いて決死の逃避行に出た。江南を目指して一心に馬を走らせるものの、もとより逃げきれると考えていたわけではない。ほどなく劉邦が送った追跡部隊に包囲され、いよいよ最期の時が訪れたことを知った項羽は漢兵の群れに身を投じ、自らの武を示せるだけ示した後に自刃した。我が身の没落はあくまで天の為すところであって決して武勇の弱さによるものではない。全身全霊でそう示した後、稀代の猛者は己が手で己が首を刎ねて果てた。莫大な懸賞金の掛かったその遺骸は漢兵がむらがって五分され、肉片を持ち帰った者達を劉邦はことごとく諸侯として列した。
1983年1月2日にNHK総合テレビジョンで劇画の静止画とカメラワークによって構成劇画ドラマ化となった。当初は中国ロケで想定したが、断念に終わった[2]
ほか
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