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この項目では、仏教用語について説明しています。
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無我(むが、巴: anattā, アナッター[注 1]、梵: अनात्मन, anātman, アナートマン, nairātmya[3], ナイラートミャ)は、あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないという意味の仏教用語[3][4]。非我とも訳される[4]。我(アートマン)とは、永遠に変化せず(常)・独立的に自存し(一)・中心的な所有主として(主)・支配能力がある(宰)と考えられる実在を意味する[4]。全てのものにはこのような我がなく、全てのものはこのような我ではないと説くのを諸法無我という[4]。
概要 仏教用語 無我, アナッター, パーリ語 ...
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アナッター(無我)は生物の性質であり、加えてアニッチャ(無常、非恒常、永遠でないこと)、ドゥッカ(苦、不満足なこと)を加えて仏教の三相をなし、また三法印と四法印の1つ[3][4][5][6]。これはダンマパダなど多くの経典で確認される[7]。仏教では四諦を述べ、輪廻を脱する道があると主張する[注 2][注 3]。
釈迦が教えを説いた当時のインドでは、バラモン教(ヒンドゥー教)の哲学者たちは、我の実在の有無を始めとする形而上学的な論争をしていた。初期仏教においては、物事は互いの条件付けによって成立し存在し(縁起)、無常であり変化し続けるため、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)してはならず、我執を打破して真実のアートマン、真実の自己を実現すべきとして、「我でない」(非我)と主張された。これは、「我がない」「主体がない」「霊魂がない」ということではなく、「アートマン」「我」「真実の我の姿」「私のもの」という観念が否定的に説かれたと考えられている。
しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人無我と法無我の二つが考えられた[28]。人無我とは、人間という存在(有情、衆生)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは無いということ[4][28]。法無我とは、あらゆるものは縁起・因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な独自の本性(自性)はないということである[4][28]。これは大乗仏教にも受け継がれて、般若思想では「無我」は「空」と表現された[28]。
ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える[29]。ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される[30]。無我という言葉はウパニシャッドの atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、釈迦はウパニシャッドの形而上学的な梵我一如思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない。仏教では、個我を個我たらしめる要素としてのアートマンの実在を、縁起の道理によって否定し、輪廻から解放される解脱への道を示した[29][32]。中村元は、初期仏教では実体としてのアートマンは認めなかったが、倫理的実践的な意味におけるアートマンはむしろ認めていたと述べている。
Anattā(アナッター)は、パーリ語で an (否定の接頭辞) + attā (アートマン)を意味する[34]。
支配能力の否定
初転法輪にて釈迦は五蘊の無我を説き、支配能力がある(宰)我の存在を否定している。
比丘たちよ、色(Rūpa)は無我である。もし色が我であるならば、色は病気にかかることはなく、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることができるはずである。
しかし比丘たちよ、色は我ではないため、色は病気にかかり、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることはできない。…
(受、想、サンカーラ、識について同様に説く…)[35]
仏教では、すべて変化する性質であり恒常不変ではないために、五蘊は我(アートマン)ではないと説く。この点はバラモン教、ジャイナ教との最大の違いである。
永遠性の否定
輪廻の主体については、ヒンズー教、ジャイナ教、無我を主張する仏教では見解が異なっているが、しかし仏教を含むこれら3つの宗教は共に生まれ変わりを信じており、以前のインド哲学の物質主義派とは違って、道徳的責任をさまざまな方法で強調している[39][40][41]。インド哲学での唯物論者(たとえば順世派)は、死が終わりであるとするため終末論者と呼ばれ、死後の世界、魂、再生、カルマなどはなく、死とは生き物が完全に消滅して霧散した状態であるとしていた(断見)[42]。
釈迦は、再生とカルマを否定した唯物論的・断滅論的な見解を批判している[39]。釈迦は、そのような信念は道徳的無責任と物質的快楽主義を奨励しているから、不適切で危険だという[39]。無我とは、死後の世界、再生、カルマの異熟がないことを意味するものではないから、釈迦は断滅論者とは対照的である[39]。しかし、釈迦はまた、それぞれの人間の中には、不滅で永遠の精神的実体(アートマン)が存在するとし、この精神的実体は生物・存在・形而上学的現実の性質の一部であるとする(常見)ことで、道徳的責任を支持する他のインドの宗教とも対照的である。[43][44][45]。
業、輪廻、無我
釈迦は業(カルマ)と無我の二つを基本教義としている[46]。
釈迦は、同時代の反バラモン教的な思想家たち(六師外道)の無我に関連する思想について、人間の身体は霊魂を含む7つの集合要素から成り7要素は互いに影響なく不変とするパクダ・カッチャーヤナの無因果論、またはの唯物論(アヘトゥカディティ)、カルマの道徳的責任を否定するアジタ・ケーサカンバリンの唯物論的教義である虚無論(ナッティカディティ)、マッカリ・ゴーサーラの運命決定論である無作用論(キリヤディティ)を誤った見解(邪見)と見なして批判・否定した
釈迦は、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)することを否定し(非我、無我)現実の苦悩の解決に役立たない形而上学的な問いには答えなかった(捨置記、無記)[48]
相応部比丘尼相応ヴァジラー経においては、衆生(人)を車に例え、それは部品(=五蘊)の集まりに過ぎないと説いてマーラを追い払ったと記載される(無我問答)[51][52]。
「衆生は何者によって作られたのか、衆生の作者はどこにいるのか、
どのような状況で衆生は発生し、どのような状況で衆生は滅するのか。」
いったい何を衆生(を衆生たらしめる原理)と信じているのか、マーラ(悪魔)よ、あなたには悪見がある。
(それは)単なるサンカーラの集合体にすぎず、衆生(を衆生たらしめる原理)は得られない。
部品の集まりによって、「車」といった呼称が起こるように、五蘊(の集まり)によって、「衆生」という世間の合意がある。
説一切有部においては、要素である法(ダルマ)の分析にともない、その法の有(う)が考えられるようになる。元来の初期仏教以来の無我説はなお底流として継承されていたので、人無我(にんむが)・法有我(ほううが)という一種の折衷説が生まれた。
この「法有我」は、法がそれ自身で独立に存在する実体であることを示し、それを自性(じしょう、サンスクリット: svabhāva स्वभाव)と呼ぶ。こうして説一切有部を中心とする部派仏教には法の体系(一種の物理学的体系)が確立された。
なお宗派としての説一切有部は滅びたものの、これらの研究は阿毘達磨教学として大乗諸派に受け継がれ、現在にいたるまで熱心に学習されている。
このような「法有我」もしくは「自性」の思想は、経量部など他の部派や、般若経典を保持する初期大乗仏教のグループから批判された。特に大乗からは龍樹が現れ、論理学を用いて、これらの法有我説を徹底的に批判した。
彼らは自性に反対の無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起 (えんぎ) 説であるとする。
このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説から発展した「空の思想」が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、無我説を発展させた「空の思想」をその中心に据えている。
注釈
On samsara, rebirth and redeath:
* Paul Williams: "All rebirth is due to karma and is impermanent. Short of attaining enlightenment, in each rebirth one is born and dies, to be reborn elsewhere in accordance with the completely impersonal causal nature of one's own karma. The endless cycle of birth, rebirth, and redeath, is samsara."
* Buswell and Lopez on "rebirth": "An English term that does not have an exact correlate in Buddhist languages, rendered instead by a range of technical terms, such as the Sanskrit PUNARJANMAN (lit. "birth again") and PUNABHAVAN (lit. "re-becoming"), and, less commonly, the related PUNARMRTYU (lit. "redeath")."
See also Perry Schmidt-Leukel (2006) pages 32-34, John J. Makransky (1997) p.27. for the use of the term "redeath." The term Agatigati or Agati gati (plus a few other terms) is generally translated as 'rebirth, redeath'; see any Pali-English dictionary; e.g. pages 94-95 of Rhys Davids & William Stede, where they list five Sutta examples with rebirth and re-death sense.[12]
Graham Harvey: "Siddhartha Gautama found an end to rebirth in this world of suffering. His teachings, known as the dharma in Buddhism, can be summarized in the Four Noble truths." Geoffrey Samuel (2008): "The Four Noble Truths [...] describe the knowledge needed to set out on the path to liberation from rebirth." See also [19][20]
The Theravada tradition holds that insight into these four truths is liberating in itself. This is reflected in the Pali canon.[22] According to Donald Lopez, "The Buddha stated in his first sermon that when he gained absolute and intuitive knowledge of the four truths, he achieved complete enlightenment and freedom from future rebirth."[19]
The Maha-parinibbana Sutta also refers to this liberation.[23] Carol Anderson: "The second passage where the four truths appear in the Vinaya-pitaka is also found in the Mahaparinibbana-sutta (D II 90-91). Here, the Buddha explains that it is by not understanding the four truths that rebirth continues."[24]
On the meaning of moksha as liberation from rebirth, see Patrick Olivelle in the Encyclopædia Britannica.[25]
出典
水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.17
総合仏教大辞典編集委員会 編『総合仏教大辞典』 下巻、法蔵館、1988年1月、1390-1391頁。
水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.334
Damien Keown (2004), Ucchedavāda, śāśvata-vāda, rebirth, in A Dictionary of Buddhism, Oxford University Press, ISBN 978-0-19-860560-7
- 橋本崇宣「初期仏教にみられる実体観:ラーダークリシュナンの解釈を中心に」『佛教文化学会紀要』第10巻、佛教文化学会、2001年、159-169頁、NAID 130003657874。
- 奈良康明「真実の「はたらき」ということ : 無常を例として」『駒澤大学佛教学部論集』第31巻、駒澤大学、2000年、1-21頁、NAID 110007019424。
- 早島鏡正、前田専学、高崎直道、原実、1982、「第5章 英領インドにおける思想運動」、『インド思想史』、東京大学出版会
- 眞田康道「仏教における無我思想の論理」『文学部論集』第79巻、佛教大学、1995年、21-40頁、NAID 110006472964。
- 清水俊史『ブッダという男 ――初期仏典を読みとく』筑摩書房、2023年、Chapt.11 無我の発見。ISBN 978-4480075949。
- Anderson, Carol (2013), Pain and Its Ending: The Four Noble Truths in the Theravada Buddhist Canon, Routledge
- Buswell, Robert E. Jr.; Lopez, Donald Jr. (2003), The Princeton Dictionary of Buddhism, Princeton University Press
- Carter, John Ross (1987), “Four Noble Truths”, in Jones, Lindsay, MacMillan Encyclopedia of Religions, MacMillan
- Gombrich, Richard F. (1997). How Buddhism Began: The Conditioned Genesis of the Early Teachings. Routledge. ISBN 978-1-134-19639-5. https://books.google.com/books?id=hQOAAgAAQBAJ
- Harvey, Graham (2016), Religions in Focus: New Approaches to Tradition and Contemporary Practices, Routledge
- Harvey, Peter (2013). An Introduction to Buddhism. Cambridge University Press
- Keown, Damien (2000). Buddhism: A Very Short Introduction (Kindle ed.). Oxford University Press
- Lopez, Donald S (1995) (PDF). Buddhism in Practice. Princeton University Press. ISBN 0-691-04442-2. http://isites.harvard.edu/fs/docs/icb.topic787480.files/Lopez-Buddhism%20in%20Practice.pdf
- Lopez, Donald, jr. (2009), Buddhism and Science: A Guide for the Perplexed, University of Chicago Press
- Mackenzie, Rory (2007), New Buddhist Movements in Thailand: Towards an Understanding of Wat Phra Dhammakaya and Santi Asoke, Routledge, ISBN 978-1-134-13262-1, http://www.ahandfulofleaves.org/documents/New%20Buddhist%20Movements%20In%20Thailand_Mackenzie.pdf
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- Lama, Dalai (1997). Healing Anger: The Power of Patience from a Buddhist Perspective. Translated by Geshe Thupten Jinpa. Snow Lion Publications. Source: (accessed: Sunday March 25, 2007)
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