阮振鐸
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事績
奉天省立高等工業学校を卒業し、さらに1913年(民国2年)に南満医学堂を卒業した。1919年(民国8年)、日本に留学し、京都帝国大学で医化学を専攻した。帰国後の1923年(民国12年)、奉天公立医学院院長兼東北大学校医となった。その後、奉天派の支配地域で軍医等を歴任している。1929年(民国17年)、長春・吉林・吉敦鉄路医院院長となった[3][4]。
満州国成立後の1932年(大同元年)4月、奉天省公署秘書長に就任する[3][4]。また、この頃には、于静遠や満州青年連盟の山口重次・小澤開作とともに、満州協和党(後の満州国協和会)を結成した[5]。11月、国務院国都建設局局長に任命された[3][4]。1935年(康徳2年)5月21日、張景恵が国務総理となった際に文教部大臣として抜擢される[6]。1937年(康徳4年)6月23日、謝介石の後任として駐日特命全権大使を命ぜられた[7]。1940年(康徳7年)12月6日、 李紹庚と入れ替わりで交通部大臣に任命される[8]。1942年(康徳9年)9月28日、全面的な内閣改造に伴い経済部大臣に移り[9]、1944年(康徳11年)12月16日には外交部大臣へ転じた[10]。
1945年(民国34年)8月、満州国が滅亡すると、阮振鐸はソ連に逮捕、連行されてしまう。1950年7月31日、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監された。なお、この収監中において、愛新覚羅溥儀による『我が半生』(原題『我的前半生』)の執筆を手伝っている。1962年、特赦により釈放された。以後、吉林衛生学校、長春市立医院図書館などで勤務している。1973年、死去[3][4]。享年82。
注
参考文献
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