Loading AI tools
ウィキペディアから
スイス陸軍士官学校を卒業。帰国後は奉天派に属し、省立東北大学教授、東三省特別区警察第三総署処長、東三省鉄路護路軍総司令部参謀、東北船政局顧問、東三省特別行政区行政長官公署参議を歴任した[1]。
1931年(民国20年)の満州事変(九・一八事変)勃発後に、于静遠は奉天自治指導部顧問兼自治訓練処処長に就任した[1]。満州国が建国された1932年(大同元年)3月からまもなく、阮振鐸や満州青年連盟の山口重次・小澤開作とともに満州協和党(後の満州国協和会)を結成した[2]。同年夏、満州協和党が改組され、満州国協和会が成立すると、于は同会総務処長となっている[1]。1933年12月、駐日公使館参事官に就任した[3]。1937年(康徳4年)3月3日、満州協和会中央本部長に任ぜられている[4]。
1937年(康徳4年)7月、国務院臨時訂立条約準備委員会委員に任命される[1]。翌1938年(康徳5年)2月10日、新京特別市市長に就任した[5]。8月、国務院企画委員会一般委員となる[1]。1940年(康徳7年)5月16日、産業部大臣に就任した[6]。同年6月1日、産業部が興農部に改組され、そのまま興農大臣に留まっている[7]。1942年(康徳9年)9月28日、民生部大臣となった[8]。1944年(康徳11年)12月17日、経済部大臣に異動している[9]。
満州国滅亡後、于静遠はソ連に逮捕、連行される。シベリアで拘束された後、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監された。1966年、特赦を受けて釈放された。1969年11月12日、死去。享年72[10] 。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.