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関 信之助(關、せき しんのすけ、1853年3月26日(嘉永6年2月17日[1][注釈 1])- 1917年(大正6年)1月21日[2][3])は、明治から大正前期の日本の弁護士・政治家。衆議院議員。
常陸国久慈郡薬谷村[2](茨城県[3]久慈郡久米村[4]、金砂郷村、金砂郷町を経て現常陸太田市)で、医師・関文友[2](文雄[5][6])の二男[5][6][注釈 2]として生まれた。
1875年(明治8年)法律学を学ぶため水戸に遊学し、北辰社を設立[2]。1878年(明治11年)法典研究と自由民権運動推進のため水戸法学館を設け幹事に就任[2][6]。有志と自由党茨城地方部を結成し[2][6]、その後、茨城自由党に改称し主事に就任した[2]。
1882年(明治15年)代言人試験に合格し代言人(弁護士)を開業[2]。代言人組合会長、水戸弁護士組合会長なども務めた[3][4][5][6]。
1889年(明治22年)水戸市会議員に当選[3][4][5][6]。1890年(明治23年)茨城県会議員に選出され[2][3][4][5][6]、1892年(明治25年)まで在任[2]。同年2月、第2回衆議院議員総選挙(茨城県第1区、弥生倶楽部)で初当選し[7]、以後、第11回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続10期在任した[3][4][5]。
1915年(大正4年)大浦事件で検挙され、1916年(大正5年)6月、高松地方裁判所で懲役2か月・執行猶予3年・追徴金300円の判決を受け[8]、控訴して同年10月、大阪控訴院で懲役2か月・執行猶予3年・追徴金300円の判決を受けた[9]。
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