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鍋島 直虎(なべしま なおとら、安政3年2月9日(1856年3月15日) - 大正14年(1925年)10月30日)は、肥前小城藩の第11代(最後の)藩主。明治時代から大正時代にかけての政治家、華族(子爵)。肥前佐賀藩主・鍋島直正の七男。母は側室・木村矩欽の娘。
幼名は欽八郎。先代藩主の鍋島直亮に男児がなかったため、文久元年(1861年)9月にその婿養子となる。元治元年(1864年)、直亮の死去により跡を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与して秋田の戦いなどで武功を挙げ、その恩賞として明治2年(1869年)8月に5000両を与えられた。それより2か月前の6月には版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されている。
明治6年(1873年)7月、明治政府からイギリス留学を許可される。同年8月、実兄の鍋島直大や実弟の鍋島直柔と共にロンドンへ遊学する[1]。明治8年6月、2年間の留学予定であったものの、1年の延長を願い出ている。帰国後に外務省御用掛となった。
明治17年(1884年)7月8日、華族令施行により子爵を叙爵した[2]。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に当選し、5期連続で当選し1925年7月10日まで在任[3]。同年10月30日に死去した。享年70。法号は威徳院殿全機直雄大居士。墓所は佐賀県小城市鷺原の祥光山星巌寺。
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