Loading AI tools
ウィキペディアから
鈴木 尚之(すずき なおゆき、1929年10月5日 - 2005年11月26日)は、日本の脚本家。岐阜県高山市(旧・吉城郡国府村大字広瀬)出身[1][2][3]。
父親は警察官で[1]、岐阜県内で転校を繰り返し[2]、父は退官時は高山警察署の署長であった[3]。旧制岐阜二中(現・岐阜県立加納高等学校)の二学年下に篠田正浩がいたが[1][3]、在学中に面識はない[3]。同中学から日本大学藝術学部に進み、大学卒業後、1954年東映に入社[3]。同期に東映京都撮影所に配属された高岩淡ら[2]。東映東京撮影所の助監督となるが、同スタジオの埃が原因で[2][3]、気管支炎を患い、一番仲良しだった深作欣二は引き留めてくれたが[3]、やむなく1955年、本社企画本部脚本課に転属し脚本家となる[3]。間もなく内田吐夢の担当になり[2][3]、「宮本武蔵シリーズ」5部作(1961年―1965年)を手掛け[3]、1963年、当時東京撮影所所長だった岡田茂から『人生劇場 飛車角』の脚本を書かされ(別人名義)[1][4]、「東映任侠映画」の路線化に貢献[1][5][6][7][8]。作品の大成功により、同年岡田からの指示で岡田のプロデュース作品『人生劇場 続飛車角』(相井抗名義)『武士道残酷物語』『宮本武蔵 二刀流開眼』『五番町夕霧楼』『おかしな奴』と6本の脚本を担当[1][9]。これらのハードな仕事をこなした信頼から、岡田に1965年『飢餓海峡』の脚本に抜擢され代表作とした[1][10]。『人生劇場 続飛車角』では、鶴田浩二が脚本に注文を付け、大ゲンカになったが、役者の意見を聞かない方針の鈴木は一切妥協せず、鶴田の要求を突っぱねた[4]。岡田茂は鈴木を「企画構成者としての才能を持つ数少ないライター。企画から興行成績の見通しまで的確に指摘できるライターは東映では鈴木しかいない」と評価した[4]。大川橋蔵の人気挽回を思案した岡田から「橋蔵主演・今井正監督で『源氏物語』を書いてくれ」との発注を断り増々評価を上げた[4]。鈴木はここから巨匠たちから脚本指名を受けるようになり、"巨匠キラー"と呼ばれるようになった[9][11]。後続の脚本家のため、一作づつギャラを上げ、一本100万円になった1967年、東映を退社しフリーとなる[2]。以降、NHK大河ドラマ『三姉妹』、『白い巨塔 (1978年のテレビドラマ)』、『不毛地帯 (1979年のテレビドラマ)』等を執筆した。日本シナリオ作家協会会長を歴任。
作家山崎豊子の信頼が厚く、『白い巨塔』『不毛地帯』の脚本は山崎の指名によるものであった。
佐久間良子ら名のある女優たちからも信頼されており、「鈴木さんの脚本なら出演します」と言わしめた。渥美清の信頼も深かったらしく、野村芳太郎・山田洋次系列以外の作家としては唯一、長年にわたってコンビを組んでいる。
脚本の直しをしないライターとして知られ、鈴木「なおさず」と呼ばれていた。
『飢餓海峡』『宮本武蔵』を監督した内田吐夢についての「私説内田吐夢伝」を上梓している。
2005年11月26日午前1時25分、肺癌のため都内の病院で死去。76歳没。
※がある作品は合作
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.