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大阪府大東市にある寺院 ウィキペディアから
慈眼寺(じげんじ)は、大阪府大東市野崎にある曹洞宗の寺院。山号は福聚山(ふくじゅさん)。本尊は十一面観音。野崎観音(のざきかんのん)の通称で知られる。
慈眼寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 大阪府大東市野崎2丁目7-1 |
位置 | 北緯34度43分9.11秒 東経135度38分40.83秒 |
山号 | 福聚山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 十一面観音(市指定有形文化財) |
創建年 | 天平勝宝年間(749年 – 757年) |
開山 | 伝・行基 |
正式名 | 福聚山慈眼禪寺 |
別称 | 野崎観音 |
札所等 | 河内西国三十三箇所特別客番 |
文化財 | 木造十一面観音菩薩、石造九重層塔(市指定有形文化財) |
公式サイト | 野崎観音 of のざき観音 |
法人番号 | 7122005001657 |
生駒山地北部の中腹に位置し、境内からは大阪平野を望むことができる。境内から野崎城跡をへて吊り橋を通って飯盛山・飯盛山城跡などへ至る登山道があるため、休日は登山者の参詣も多い。
5月頭の無縁経法要(「有縁無縁すべてのもの[1]」に対し、感謝の読経を捧げる行事)は「野崎詣り(のざきまいり)」の通称で知られ、江戸時代より続く。「野崎詣り」の期間は参拝客で賑わう。
かつての「野崎詣り」は大坂から川を遡り、かつて生駒山の麓に存在した深野池まで舟で行くという参詣の風景が見られ、人形浄瑠璃や落語等のフィクション作品の舞台となっている(後述)。
天平勝宝年間(749年 - 757年)に天竺(インド)から来朝した婆羅門僧正が行基に「野崎は釈迦如来が初めて仏法を説いた鹿野苑(サールナート)に似ている」と語り、それを受けた行基が、白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。本尊は長谷寺の本尊と同木から彫られたという。
平安時代、遊女・江口の君(江口の長者)が、難病治癒の報恩を感謝するため現在の場所に寺を移転し、再興に尽力(同寺では中興の祖と位置付けられている。なお、寺院移転に関しては真言宗関与説がある)した。
室町時代には当寺の後方に河内守護畠山氏によって野崎城が築城されたために戦火にあって衰微した。特に永禄8年(1565年)には三好三人衆と松永久秀による合戦の兵火(東大寺大仏殿の戦い)にかかり、本尊を除いて全焼している。
元和2年(1616年)に青厳によって再興されると、天和2年(1682年)に「野崎詣り」が始まる。元禄・宝永年間(1688年 - 1710年)までに、同行事が盛んになるにつれて、門前が繁栄するようになった。
昭和47年(1972年)7月12日、 昭和47年7月豪雨により寺院裏手の山が崩れ、大書院が土砂で埋まって全壊する[3]。
大阪みどりの百選に「野崎観音の緑」が選ばれている。
かつて西側一帯には付近の川(大和川付け替え以降は寝屋川および支流の谷田川)につながる大きな池・深野池があり、大坂側のターミナルである天満橋の八軒家浜から深野池にかけて「野崎詣り」の参拝客向けの屋形船が行き来していた。船の搭乗客の間では、陸路を歩く参拝者と罵り合う風習があったといい、競り勝てば一年の幸を得られる、と信じられたと伝わっている。
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