逸見享
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逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日 - 1944年(昭和19年)10月19日[1])は、大正時代から昭和時代戦前にかけての版画家、装幀家。
和歌山県和歌山市生まれ[2]。 1913年(大正2年)に和歌山市立和歌山商業学校を出て上京し、1914年(大正3年)中央大学に入学する[3]。1915年(大正4年)12月に同郷で3学年先輩に当たる田中恭吉の遺作展覧会を東京・日比谷美術館で見て感銘を受ける[2][1]。
1916年(大正7年)に小林富次郎商店(後のライオン歯磨本舗小林商店)に入社し[1]、同社意匠部に勤めるかたわら木版画を始めた。詩人の大手拓次が小林商店広告部の文案係に入ると彼と知り合い、共に詩や短歌を作りながら詩集『異香』(1917年)、『あをちどり』(1918年)、『詩情』(1924年)、後に大手の遺作となる『藍色の蟇』(1936年)などの装幀を手がけるようになった[1]。
1919年(大正10年)には第1回日本創作版画協会展に《森田氏の顔》《幸福な海女の群》を出品して入選し[2]、1929年(昭和4年)まで出品した。1928年(昭和3年)には春陽会へも出品し、第6回の同展では《食卓》《上海風景》《静物》が入選した。春陽会へは1934年(昭和9年)まで出品した[1]。この他にも地方の地方展・創作版画誌などへも積極的に参加している。
1928年(昭和3年)には恩地孝四郎ら7名と「卓上社」を結成し、翌1929年にはメンバーと「創作版画倶楽部」の創立に参加した。関東大震災での被災から復興した東京を描いた『新東京百景創作版画』の制作にも携わり、逸見は《植物園》(1929年)、《帝国ホテル》(1930年)、《聖橋》(同)、《四谷見附雨景》(同)、《本郷元町展望公園》(1931年)など13作を手がけた[1]。
1931年(昭和6年)、日本版画協会が結成され、逸見もこれに参加した。第1回展には《ひのみ》《海村風景》《公園》《東京府美術館》を出品し、1943年(昭和18年)まで計9回出品した[1]。
海外の展示会にも出品し、1934年にパリ(フランス)で開かれた「日本現代版画とその源流展」、1936年にジュネーブ(スイス)で開かれた「日本の古版画と日本現代版画展」、同年より1937年にかけて欧米8都市を巡回した「日本現代版画展」、1942年の上海(中国)「日本版画協会展」などにも出品した[1]。
1936年(昭和11年)から1940年(昭和15年)ごろまで日本版画協会の理事を務め、同協会が出版するカレンダーの挿絵も手掛けた[1]。
1939年(昭和14年)の『新日本百景版画』(1938年 - 1941年、39作で未完結)では13番目の《潮來晩秋》(茨城県)を制作した[1]。
1942年(昭和17年)詩画集『書窓版画帖十連聚 其七 水韻譜』を発表し、これが生涯最後の作品となった[1]。1944年に東京都杉並区の自宅で死去した(享年49)[1]。
1947年(昭和22年)、第15回日本版画協会展に遺作《海村風景》など24点が特陳された。
逸見の作品の多くは和歌山県立近代美術館に寄贈されており[1]、2015年(平成27年)に同館は彼の生誕120年を記念して『特集 生誕120年 逸見享』を開催した[2]。
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