衣川篤史
ウィキペディアから
衣川 篤史(きぬがわ あつし、1981年3月20日 - )は、兵庫県宝塚市出身の元プロ野球選手(捕手)。2019年から東京ヤクルトスワローズ一軍バッテリーコーチ。
経歴
要約
視点
プロ入り前
大商学園高校から岐阜聖徳学園大学に進学。同期の星野八千穂とバッテリーを組み、強化後間もないチームを大学選手権、明治神宮大会に初出場させる大きな原動力となった。3年時の大学選手権では初勝利もあげて、翌年も連続出場した。大学4年時にはシュアな打撃でドラフト候補と報道されたものの、プロからの声はかからなかった。
社会人野球の昭和コンクリートへ進んだものの、チームは2003年の夏をもって活動休止となり、住友金属鹿島へ転籍。住友金属鹿島では正捕手の座をつかみ、都市対抗野球大会連続出場に貢献した。社会人通算4年目となる2006年、第77回都市対抗野球大会の1回戦では日本生命と対戦。試合には敗れたものの、日本生命が仕掛けた4盗塁を全て阻止。強肩ぶりが注目され、一躍ドラフト有力候補となった。
2006年の大学・社会人ドラフトで東京ヤクルトスワローズから4巡目で指名を受けた。11月22日に推定契約金5,000万円、年俸1,000万円で仮契約を行い入団した。
プロ入り後
一軍キャンプに招聘されたが、オープン戦で当たりが出なかったこと、守備面でも課題を指摘されたことから、開幕は二軍スタートとなった。出場機会を増やすため、一塁手にも挑戦している。7月に川本良平が一軍昇格した後はほぼ二軍の正捕手として定着し、最終的に53試合に出場。ファームとはいえ打率.274、5本塁打と一年目からまずまずの成績を残した。
キャンプは二軍スタートだったが、川本良平の故障に伴って一軍キャンプに合流。開幕は再び二軍で迎えたものの、イースタン・リーグでは開幕から正捕手を務めた。打撃不振の選手が多い中で、二軍とはいえ3割台をキープ。そのことと福川将和の骨折の疑いもあり、5月13日に一軍初昇格。同日の対中日戦で初出場、初先発を果たした。翌5月14日対中日戦5回裏2アウト無走者の場面で、山本昌からプロ入り初安打を放った。しかし右肘の故障によって一軍に定着することはできず、5月29日に登録を抹消されると、以降は二軍で過ごすことになった。8月には試合に復帰し、最終的にイースタン・リーグとはいえ、44試合で打率.302、2本塁打10打点1盗塁と、前年を上回る結果も出している。秋には川本良平、米野智人らと共に一軍メンバーに選ばれ、松山でキャンプを過ごした。
シーズンの大半を二軍ですごし、ファーストやサードなども経験する。シーズン終盤に一軍へ昇格し、最終戦では代打でタイムリーを放つ。 クライマックスシリーズでもベンチ入りするも、新型インフルエンザにかかり、チームに貢献はできなかった。
シーズン序盤に2年ぶりの本塁打を放つなど活躍したが、それ以降は二軍ですごし、そのままシーズンを終えた。
一軍での出場はなく、二軍のみの出場となった。二軍では49試合に出場したが、打率.193、本塁打1、打点8であった。10月9日に戦力外通告を受け[1]、12月2日に自由契約公示された。
現役引退後
その後、現役を引退し、ヤクルトのスコアラーに就任した[2]。
2019年より、野口寿浩に代わって東京ヤクルトスワローズ一軍バッテリーコーチに就任することが決まった。
人物
社会人時代に結婚し、息子が2人いる。妻子がある場合入寮は免除されるが、2007年に単身で入寮した。
詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
- 初記録
背番号
- 38(2007年 - 2011年)
- 83(2019年 - )
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.