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日活向島撮影所の新派俳優 ウィキペディアから
藤川 三之助(ふじかわ さんのすけ、1884年3月21日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5]。本名平田 三彌(ひらた さんや)[1][2]。
1884年(明治17年)3月21日、神奈川県横浜区尾上町(現在の同県横浜市中区同町)に生まれる[1][2]。1930年代に日活京都撮影所で脇役を務めた時代劇俳優の藤川三之祐は、1889年(明治22年)3月22日生まれであり、年齢も近いが、別人である[2]。
旧制中学校に進学したが、2年次で中途退学し、三井物産の郵船部門(現在の商船三井)に勤務した[1]。その後、職替えののちに新派俳優となり、佐藤幾之助や木村猛夫らの一座に参加、各地を巡業する[1]。1911年(明治44年)に福宝堂が東京府北豊島郡日暮里村(現在の東京都荒川区西日暮里3丁目7番)に自社の撮影所を建てたが、これに入社して、映画俳優に転向する[1]。1912年(大正元年)9月10日、福宝堂は他社と合併して「日本活動写真株式会社」(日活)を設立するが、藤川は、元福宝堂が1914年(大正3年)3月17日に設立した天然色活動写真(天活)に移籍している[1]。
1916年(大正5年)2月、改めて日活に入社、向島撮影所に所属し、当初は女形として出演、のちに男役に転向する[1]。1922年(大正11年)12月、田中栄三が監督した『京屋襟店』の完成試写後に、藤野秀夫、衣笠貞之助、荒木忍、東猛夫ら幹部俳優13名が集団退社の辞表を提出、石井常吉の計画によって国際活映(国活)に引き抜かれる事件が起きるが、藤川もこれに連座し、国活に電撃的に移籍している[6][7]。
1923年(大正12年)3月、国活が製作を停止すると同社を退社し、同年10月、衣笠貞之助ら同様に京都に移り、等持院に撮影所を持つ牧野省三のマキノ映画製作所に移籍、衣笠が監督する映画に出演している[3][4]。1924年(大正13年)3月、等持院撮影所が東亜キネマに吸収されてからは、高松豊次郎の娘婿の山根幹人、高松の三男・高松操(のちの吉村操)の監督作等に出演、1925年(大正14年)に高松が、牧野省三のマキノ・プロダクションと連携するタカマツ・アズマプロダクションを設立すると、東京に戻り、これに参加している[3][4]。1927年(昭和2年)に同プロダクションが活動停止、それ以降は、1929年(昭和4年)に日活太秦撮影所での出演記録がみられる[3][4][5]。別人である「藤川三之祐」が映画界に参入するのが1933年(昭和8年)であるとされているが[2]、多くの資料で混同されており、詳細は不明である[3][4][5]。没年不詳。
クレジットはすべて「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
特筆以外すべて製作は「日活向島撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][5]。
特筆以外すべて製作は「マキノ等持院撮影所」、配給は「マキノ映画製作所」、すべてサイレント映画である[3][4]。
特筆以外すべて製作・配給は「タカマツ・アズマプロダクション」、すべてサイレント映画である[3][4]。
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