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平安時代後期の公卿 (1096–1157) ウィキペディアから
徳大寺 実能(とくだいじ さねよし)は、平安時代後期の公卿。権大納言・藤原公実の五男。徳大寺家を興す前は、藤原実能(ふじわら の さねよし)と称していた。官位は従一位・左大臣。徳大寺家の祖。待賢門院の同母兄。久安3年(1147年)徳大寺を建立し、徳大寺左大臣と称された。
徳大寺実能(天子摂関御影より) | |
時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 永長元年(1096年) |
死没 | 保元2年9月2日(1157年10月6日) |
改名 | 藤原実能→徳大寺実能→真理(法名) |
別名 | 徳大寺左大臣、大炊御門左大臣 |
官位 | 従一位、左大臣 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流 |
父母 | 父:藤原公実、母:藤原光子(藤原隆方の娘) |
兄弟 | 藤原実隆、三条実行、藤原実兼、藤原経実室、覚源、藤原通季、仁実、実能、実子、公子、藤原経実室、源有仁室、璋子、藤原季成、済実、藤原家政室 |
妻 |
藤原顕隆の娘、藤原宗忠の娘、 廊御方(藤原通季の娘) |
子 |
幸子、公能、公親、公保、能慶、公雲、円実、公全、公性、公重、春日局 養子:育子 |
長治元年(1104年)に従五位下に叙せられる。元永元年(1118年)、璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権亮、天治元年(1124年)璋子が院号宣下を受けると待賢門院別当になる。璋子の兄であることから重用され、保安3年(1122年)に権中納言に任じられた後は、左兵衛督・右衛門督・検非違使別当と累進。長承2年(1133年)には長女・幸子(22歳)を藤原頼長(14歳)と結婚させることで、摂関家と関係を強めた。保延2年(1136年)に正二位権大納言となるが、永治元年(1141年)の崇徳天皇の退位と康治元年(1142年)の待賢門院出家により、閑院流は低迷期に入る。
閑院流の中心は異母兄の三条実行だった。頼長の支援を受けた実能は、実行を名誉職である太政大臣に棚上げして空席を作り、久安6年(1150年)に内大臣となった。久寿2年(1155年)に幸子が逝去すると頼長から離れて美福門院に接近し、皇太子・守仁親王(後の二条天皇)の東宮傅(とうぐうのふ)になるなど変わり身の早さを見せる。保元元年(1156年)9月、左大臣となる。保元2年(1157年)正月に従一位に叙せられるが、7月に出家して法名を真理と称した。9月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨去。
歌人として有名で、かつての家人・西行と親交が深かった。
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