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東京帝国大学(現・東京大学)法学部在学中の1944年に学徒出陣して、陸軍特別操縦見習士官として特別攻撃隊に配属されたが[1]、敗戦後に無事に復員した。その後、京浜美術工芸社勤務を経て、1953年(昭和28年)に佐分利信にスカウトされて、佐分利信監督・主演の映画『広場の孤独』で銀幕デビューを果たす。2作目も佐分利が監督した映画『叛乱』(1953年、新東宝)に出演する。1953年、松竹に入社。松竹入社後は、『蛍草』(1954年、松竹)、『母性日記』(1955年、松竹)、『美貌の園』(1956年、松竹)などに水原真知子、中川弘子、杉田弘子、七浦弘子、紙京子らと共演して松竹大船調メロドラマ作品で活動する。松竹大船現代劇において、佐竹明夫、船山裕二、溝口亮らと共に、当時の松竹三羽烏:佐田啓二・高橋貞二・大木実や川喜多雄二と肩を並べる活躍をする。その後も『花ふたたび』(1956年、松竹)、『家庭教師と女生徒』(1957年、松竹)などのメロドラマ作品に出演を続けた後に、1961年に松竹を退社。フリーになり、テレビドラマにも出演するようになった。
フリーになってからは『ごめんねママ』などのホームドラマに出演していたが、1967年頃には芸能界を離れて、当時、第2次佐藤内閣において菅野和太郎通商産業大臣の下で通産政務次官に就任していた宇野宗佑の秘書を務めており、その頃には信託銀行のCMだけに出演していた[2]。また、1967年には、自由民主党参議院議員でタレント議員のはしりであった藤原あきの逝去に伴い、菅佐原が「学生時代(東京帝国大学法学部)からの夢でした。」と、藤原あきの政治基盤を引き継ぐ形で、自由民主党からの参院選出馬へ意欲を見せたこともあった[2]。
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