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日本のプロゴルファー ウィキペディアから
県立兵庫高校時代は野球部の内野手で2番打者として活躍し、卒業後は城陽カントリー倶楽部に入社[1]。
1962年にプロ入りし[1]、1963年の関西オープンでは橘田規の2位[2]、1964年の中日クラウンズでは陳健忠(中華民国)・石井朝夫・内田繁・石井迪夫と並んでの7位タイ[3]に入った。
1965年の日本オープンでは3日間70台で迎えた最終日に66をマークし、内田・海野憲二と並んで橘田の2位タイに入った[4]。
1966年の日本オープンでは佐藤精一・橘田・陳清波(中華民国)・宮本省三・安田春雄・杉本英世・杉原輝雄に次ぎ、内田・戸田藤一郎と並んでの9位タイに入った[5]。
西日本サーキットでは1967年の下関シリーズ8位、1968年の下関シリーズでは宮本と並んでの8位タイ、長崎国際シリーズでは石井冨士夫・村上隆と並んでの3位タイに入った[6]。
1969年の日本オープンでは初日にダブルボギーもあったが6バーディーを奪い、石井と並んで内田と1打差の2位に入り、2日目には74であったが1打差2位に残った[7]。
1970年には関西プロで戸田・宮本と並んで杉原の2位タイ[8]、ブリヂストントーナメントでは7位[6]に入った。
1971年のブリヂストントーナメントでは謝敏男(中華民国)と共に通算3アンダーの285で首位に立ち、プレーオフでは5ホールにわたる激闘となり、18番で手堅くパーを出して優勝[6]。
1972年にはダンロップフェニックストーナメントの前身に当たる第1回「フェニックストーナメント」[9] [10]で初日を69の2位[11]でスタートし、2日目には77を叩いて増田光彦・佐々木勝・草柳良夫と並んでの6位タイ[12]に後退するが、3日目には安定したプレーを見せて2位[13]に再び浮上。最終日は前日首位の島田幸作に3打差でスタートし、アウトで3バーディを出して追いつき、10番でリードを奪うと、勝負を最終ホールに持ち込む[1]。2mのパーパットを外せば島田とのプレーオフになるが、能田はラインを読みながら、脇にいたコースの人に「どう打ったらいいか教えて下さい」と聞く余裕を見せた[1]。パートナーの安田春雄・島田が「プレーオフだよ」と声をかけるのを軽くいなし、「カップに届けば必ず入る」と自信を持って打ち、島田に2打差付けての逆転優勝を決めた[1]。
1976年には関西オープンでは10位タイ[14]、関西プロでは2日目から最終日まで3日連続60台をマークし大場勲と並んでの3位タイ[15]に入った。日本プロでは3日間60台をマークし、3日目には最終18番で1.8mのバーディーパットを決めて[16]金井清一・榎本七郎と並ぶ首位タイとなり、最終日は中嶋常幸と並んでの6位タイに終わった[17]。
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