細川 律夫 (ほそかわ りつお、1943年 〈昭和 18年〉8月8日 - )は、日本 の元政治家 、弁護士 。
衆議院議員 (7期)、衆議院環境委員長 、衆議院決算行政監視委員長 、厚生労働大臣 (第13代 )、第89代裁判官弾劾裁判所長 を歴任した。
2015年11月5日、大綬章の親授式後の記念写真にて(右から4人目)
高知県 吾川郡 吾北村 (のちの高知県吾川郡いの町 )出身。明治大学法学部 卒業後、弁護士となる。大森勧銀事件 では被告人 の弁護を手がけ、冤罪 を晴らし逆転無罪 を勝ち取る。
その後、政界に転じ、1990年 の第39回衆議院議員総選挙 にて初当選。
日本社会党 、社会民主党 を経て、1996年 の旧民主党 の結成に参加した。
1998年 、旧民主党、民政党 、新党友愛 、民主改革連合 が合流した民主党 の結党に参加する。鳩山由紀夫内閣 、菅直人内閣 で厚生労働副大臣 を務め、菅直人改造内閣 では長妻昭 に代わり、副大臣から昇格する形で厚生労働大臣に就任。
2010年9月29日 、中国建国記念レセプションに出席した[2] 。
2011年 発足の再改造内閣 でも留任した。同年9月に発足した野田内閣 では政府から離れ、民主党の代議士会長に就任した。
2012年 12月16日 執行の第46回衆議院議員総選挙 では、埼玉3区 の小選挙区 で出馬するも、自由民主党 新人の黄川田仁志 に敗れ落選。比例復活 もならず、7期続いていた衆議院議員の議席を失った。
2014年 12月14日 執行の第47回衆議院議員総選挙 では、埼玉3区の小選挙区で出馬するも、再び落選。比例復活もならず議席を回復できなかった。投開票日翌日、ホームページ上で政界引退を表明した。後継は山川百合子 。
2015年 11月、旭日大綬章 受章[3] 。
厚生労働大臣就任時の会見にて
2010年 9月21日 、新旧厚生労働大臣 の事務引き継ぎにて長妻昭 (右)と
厚生労働副大臣として
2009年1月15日、製造業 への労働者 派遣を禁止することを柱とした労働者派遣法 改正案を今国会に提出することを発表した[11] 。
政府 の緊急雇用対策本部内に設置された「緊急雇用創造チーム」のリーダーに就任。介護・農林・地域NPOなどが参加する社会的企業の3分野での雇用 創出に意欲を見せた[12] 。
2010年10月12日の衆議院 予算委員会 の質疑において、自民党 の河野太郎 から厚生労働省 の天下り の実態について質問されたが、事前の質問通告がなかったことを理由に答弁を回避した。また翌13日の予算委員会でも、自民党の西村康稔 から子ども手当 の支給額及び支給の時期について質問されたが、ここでも事前の質問通告がなかったことを理由に答弁を回避した。
大学病院 等の協力による電子カルテ 等データ活用計画について、2011年2月3日、衆議院予算委員会で「来年度の予算案に医療情報データベース基盤整備事業を盛り込んだ」と再開を報告した[13] 。なお大学への病院情報システムの新規導入は、2009年から2年程度停止していた。
子ども手当の趣旨について、2011年2月8日の衆院予算委員会で鳩山由紀夫 内閣総理大臣 が「自民党の児童手当 とは、趣旨・制度の内容が異なる」としてきた趣旨を撤回し、「子どもの成育を支援する現金給付政策である点で児童手当と共通する」との認識を強調した。
子ども手当の財源については「地方の負担」(養控除の廃止による地方の増収分)を求める方針を強調し、第45回衆議院議員総選挙 のマニフェスト である「全額国庫負担」を履行を主張する枝野幸男 内閣官房長官 と対立した[14] 。
2011年 3月4日 、参議院 予算委員会にて自民党の世耕弘成 から、専業主婦 の国民年金 3号被保険者切り替え忘れ問題で、 2010年 12月 に厚生労働省の担当課長が通達で救済策を出した事について「知らなかった。不明を恥じる」と陳謝した[15] 。この通達では、過去2年間を遡及して払込めば「国民年金を満額支給する」内容であった為、「きちんと支払いした人が不公平だ」との不満が続出。この救済策では、国民年金法 を改正せず「課長通知」で済ましてしまった点を問題視、さらにその申請を受理してしまった人には「磁気テープが金融機関 に送られており、振込を止めるのは不可能だ」と答弁した[16] 。また細川は2011年3月10日の参議院予算委員会で、監督不行き届きの責任をとり就任から同年4月までの自らの大臣俸給を返納することを表明。公明党 の草川昭三 が身を引くべきと追及したことに対し、「3号被保険者の不整合を解決し、年金に対する国民 の信頼を取り戻すことが責務」としてその考えがないことを述べた[17] 。
厚生労働大臣として
厚労省 の「毎月勤労統計」の不正調査問題では2004年以後の歴代厚労相13人の政治責任も問われ、現職の根本匠 は大臣報酬 などを自主返納すると発表したが、夕刊フジ では歴代厚労相12人に対して厚労相時代に受け取った報酬を返す意思があるかと質問したところ、細川は「回答しかねる。元大臣として責任を感じるが今後どんな展開になるかわからない為」と答えた[18] 。
細川が筆頭提出者であった法案
雇用保険法改正案
内定取消規制法案
労働者派遣法改正案
道路運送法改正案
タクシー適正化特措法案
交通基本法案
死因究明法案
法医科学研究所法案
児童ポルノ法改正案
「南越谷阿波踊り 」にはりっちゃん連の名で毎年地元連の一員として参加している[23] 。
選出選挙区の埼玉3区 は、越谷市 と草加市 が選挙区であり、越谷市を地盤 とする民主党の細川と、元草加市長で自民党 の今井宏 が毎回激突していた。尚、今井は2009年の第45回衆議院議員総選挙 で細川に敗れ、政界からの引退を表明した。
金丸信 が東京佐川急便事件 で政治資金規正法 違反に問われたものの略式起訴 となった際、東京地方検察庁 にハガキ攻勢をかけ、厳正な対処をするよう働きかける「告発はがき」運動に取り組んだ[24] 。
叔父二人が戦死していることもあり、靖國神社 には日を決めず不定期に参拝していると2011年8月15日に述べている[25] 。閣僚 として終戦の日 や春季・秋季例大祭 に参拝したことはない。
第171回国会 において提出された議員提出法案約40本のうち、細川が提出者であった法案が8本、うち筆頭提出者であった法案が6本で、これは全議員中最多数[26] 。また継続審議となっていた法案36本中、細川が筆頭提出者であった法案が3本あり、前述の新規提出分とあわせると、第171回国会で審議された衆法中9本の筆頭提出者が細川で、この数字も全議員中最多数[26] 。
趣味はスポーツ、特にソフトボール・水泳。
単著
『法律家の見た新しい中国』、1978年
『生活を10倍楽しくする法律情報』(現代書林)、1986年
『新市民時代の選択』(現代書林)、1996年
細川威(たけし) 二男 埼玉県議会議員(立憲民主党・当選1回)
mネット、2004年2月 国会議員への民法改正に関するアンケート
民主党:製造業派遣を禁止へ 「3年後」で調整・労働者派遣法改正案、今国会提出へ…社民、国民新と共同提出 [毎日新聞 2009年1月15日 2時30分]
政府の雇用チームが初会合 地域戦略会議の設置要請へ - 共同通信 2009/11/06
子ども手当めぐり閣内不一致が露呈 厚労相が枝野氏発言を牽制 - 産経新聞(2011.2.8 10:19)
民主党ホームページ:【衆院予算委】細川議員、鹿野道彦議員に業際研との関係を質す
民主党ホームページ:野田国対委員長、緊急記者会見を開催し、堀江メールを公表
民主党ホームページ:【衆院法務委】細川議員、共謀罪の曖昧さに厳しく批判加える
民主党:「時給最低1000円を目指す」最低賃金法改正案を衆議院に提出