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日本の声楽家、音楽教育者、作曲家 ウィキペディアから
立松 ふさ(たてまつ ふさ、1891年(明治24年)3月23日 - 1992年(平成4年)11月16日)は、日本の声楽家。声種はソプラノ。音楽教育者。作曲家。武蔵野音楽大学名誉教授。旧姓は薗部。名は房子と表記されることが多い。フサと表記されることもある。
東京府亀戸[注釈 1]出身[1][注釈 2]。警察官、薗部久五郎の長女として生まれる[2]。東京府立第一高等女学校卒[3]。東京音楽学校にてハンカ・シェルデルップ・ペツォルト、宮廷歌手ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事[4][注釈 3]。1913年(大正2年)に同校本科声楽部を卒業。1915年(大正4年)から同校声楽講師。1925年(大正14年)私立東京女子体操音楽学校(現:東京女子体育大学)講師[5]。1927年(昭和2年)函館で演奏会を開催[6]。1928年(昭和3年)長崎・南座で立松房子一行大演奏会[7]。武蔵野音楽学校講師[注釈 4]。1933年(昭和8年)に薗田誠一/立松房子/斎藤静子による武蔵野音楽学校演奏会開催[8]。レーヴェ夫人主催 女流声楽家大演奏会(出演者:長坂好子/立松房子/早川美奈子/渡辺宣子/岡見幾久子/武岡鶴代/斎藤英子/伴・ラウルトップ)[9]。1944(昭和19年)に東京音楽学校を退職。ウィーンに留学後[4]、1952年(昭和27年)から1968年(昭和43年)まで武蔵野音楽大学教授。退職後は武蔵野音楽大学名誉教授[1]。ときわ会声楽研究会主宰[1]。
立松に師事した著名な音楽家としては、関鑑子、渡辺はま子[10]、藤原フサヱ[11]、比留間きぬ子[12]、小川寛興、本倉雅子[13]などがいる。
1992年(平成4年)11月16日死去。101歳没。1993年(平成5年)7月「立松ふさを偲ぶ会」演奏会が開催される[14]。
1927(昭和2年)年頃、花巻で独唱会を開催。「夫君の立松判事が職務上の事件から、世間的に問題を捲き起こし、たいへん同情されて居り」「立松夫人は夫君を助ける為に一人児を家に置いて、地方廻りの独唱会を開いて」いた。その立松に宮沢賢治が手作りの花を少女へ頼んで渡したという[19]。
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