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神風型駆逐艦(かみかぜかたくちくかん)は、日本海軍の駆逐艦の艦級[23]。同型艦9隻[4]。
神風型(第1号型)駆逐艦 | |
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横須賀軍港を出港する「春風」(推定1934年1月から2月)[3] | |
基本情報 | |
種別 | 一等駆逐艦[4] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 9隻[4](#同型艦を参照) |
前級 | 峯風型駆逐艦 |
次級 | 睦月型駆逐艦 |
要目 (計画) | |
基準排水量 | 1,270トン[5] |
常備排水量 | 1,400トン[6] |
全長 | 336 ft 6 in (102.57 m)[6] |
水線長 | 常備状態 327 ft 0 in (99.67 m)[5] |
垂線間長 | 320 ft 0 in (97.54 m)[6] |
最大幅 | 30 ft 0 in (9.14 m)[7][8][注釈 1] |
深さ | 19 ft 0 in (5.79 m)[6] |
吃水 | 9 ft 7 in (2.92 m)[6] |
ボイラー | ロ号艦本式缶(過熱器付[9]) 4基[10] |
主機 |
前期艦(5隻):三菱パーソンズ式[注釈 2]タービン(高低圧) 2基[8] 後期艦(4隻):艦本式タービン(高低圧[8]) 2基[9] |
推進器 |
2軸 x 400rpm[10] 直径9 ft 9 in (2.97 m)、ピッチ12 ft 0 in (3.66 m)[11][12] |
出力 | 38,500shp[5] |
速力 | 37.25ノット[6] |
航続距離 | 3,600カイリ / 14ノット[5] |
燃料 |
重油:420トン[5] または422トン[13][14] |
乗員 |
竣工時定員 149名[15] 1943年4月1日時定員 154名[16][注釈 3] |
兵装 |
45口径三年式12cm砲 単装4門[17] 機銃2挺[17] 一〇年式連装発射管 3基[18] (53cm)六年式魚雷:前期艦8本、後期艦10本[18] 一号機雷 16個[14] 朝風・春風・松風・旗風[19] 単艦式大掃海具1組[20] 後期艦4隻 八一式爆雷投射機2基、同装填台2基、同投下軌道2条[18]、爆雷18個[21] |
搭載艇 | 20ft(フィート)内火艇1隻、20ftカッター2隻、20ft通船1隻[22] |
トンは英トン |
神風型(二代)は、「野風型(改峯風型)駆逐艦」の改良型として、戦艦長門などの建造に代表される八八艦隊計画の一環で計画された大型駆逐艦(艦隊型駆逐艦)。八八艦隊計画での主力大型駆逐艦として27隻の建造が予定され、その結果艦名に使用する名称が足りなくなることから、艦名は番号を付けることになった。ワシントン海軍軍縮条約締結により結局本型の建造は9隻となり、1928年(昭和3年)8月には固有の艦名が付与された。
太平洋戦争には全艦が駆逐艦籍のまま参加し、 ペナン沖海戦や潜水艦ホークビルとの死闘で知られる1番艦神風や、米潜水艦シャークを撃沈した3番艦春風、太平洋戦争における日本海軍戦没艦艇第一号の7番艦疾風、第一次ソロモン海戦やコロンバンガラ島沖海戦に参加した9番艦夕凪などがある。
1918年(大正7年)3月に公布された八六艦隊完成案(「愛宕」「高雄」などを計画)では、一等駆逐艦11隻中の6隻が峯風型として竣工、神風型は3隻が竣工(「第1(神風)」「第3(春風)」「第5(朝風)」)した[24]。 この計画の1隻当たりの要求予算は2,208,546円だった[24]。 また、1920年(大正9年)8月に公布された八八艦隊完成案では大型駆逐艦(一等駆逐艦に相当)22隻(1隻2,208,465円)の予算が成立し、神風型は2隻(「第7(松風)」「第9(旗風)」)が建造された[25]。 これら計画のうち製造未訓令だった一等駆逐艦22隻(八六艦隊案の2隻と八八艦隊案の20隻)はワシントン軍縮条約後に計画が整理され、新たに大正十二年度艦艇建造新計画に移行した[26]。 この計画のうち、軍艦製造費によって1,400トン型駆逐艦が3隻計画され、神風型の3隻(「第11(追風)」「第13(疾風)」「第15(朝凪)」)が建造された[27]。 また補助艦艇製造費によって1,400トン型駆逐艦が更に21隻建造の計画だったが、途中に変更となって1,400トン型13隻と1,700トン型(後の吹雪型)5隻の建造となった[28]。 1,400トン型は神風型1隻(「第17(夕凪)」)が建造され、残り12隻は睦月型駆逐艦へ移行した[29]。 なお、軍縮条約以後に計画の4隻を追風型[30]、または軍縮条約以後の(睦月型を含む)1,400トン型全てを追風型としている文献もある。
基本計画番号F41B[31] (またはF41C[21])。 兵装配置や機関などは野風型(峯風型最終の3隻)と同じだが艦の復原力・安定性を増すために艦幅を9インチ広げて30フィート(峯風型は29フィート3インチ)とし、排水量は1,400トン(峯風型1,345トン)になった[7]。 その結果、同じパーソンズ式タービンであるが、タービンの直径を増し、高圧タービンは2,750rpm(従来は3,000rpm)になるなど、若干の設計変更がなされている[32]。
船体形状は峯風型と同様、一号機雷に対応したスプーン型艦首で、タートルバックを持つ短い船首楼を有し、艦首のフレアは大きかった[33]。 船体中央は顕著なタンブルホーム(水線幅より上甲板の幅の方が狭い形状)になっていた[19]。 艦尾は典型的なデストロイヤー・スターンで[33]、 舵の形状が峯風型と比べて若干変化しているという[18]。
兵装は峯風型と同様の45口径三年式12cm砲4門、53cm連装魚雷発射管3基6門を搭載した[18]。
発射管の形式は峯風型の六年式から「十年式53センチ2連装水上発射管」に代わり、これは1.5馬力電動機で機力旋回し、予備で人力旋回も可能なものだった[34]。
また、追風、疾風、夕凪の3隻には魚雷装填時間を1分から40秒に縮めた
機銃は2挺を計画し[17]、 前期艦5隻は艦橋両舷のウイングに1挺ずつ配置した[35]。 1923年(大正12年)3月時点で「第1」「第3」「第5」は三年式機砲(口径6.5mm)を装備(機銃装備の他の駆逐艦も同様)[36]、 1931年(昭和6年)3月の調査では後期艦(後述)を含めて9隻全て留式機銃(口径7.7mm)となっている[37]。
9隻とも艦尾には一号機雷敷設軌道が設置され、「朝風」「春風」「松風」「旗風」の4隻には爆雷投射機、同投下台の他パラベーン、ウインチなどの掃海設備が追加された[19]。 また「追風」以下の後期艦には爆雷投射機、投下軌道が追加された(後述)[19]。
艦橋の基本形状は峯風型と変化無い[38]。 竣工時の峯風型は露天艦橋で、その周囲は手摺だけあり、雨天時などは周囲と天井をキャンバスで覆う形だった[39]。 神風型より前面、側面は金属固定式となり[40]、ガラス窓が装備された[41]。 天蓋は峯風型同様キャンバスのままで1940年(昭和15年)の「旗風」でもまだキャンバス張りが見られ[42]、 終戦時の「春風」では固定天蓋となっていた[41]。 この時の前面、側面には防弾板の装着が見られる[41]。 また艦橋トップには2m測距儀と40cm探照燈が装備されたが、40cm探照燈は竣工後に撤去、後期艦は40cm探照燈が装備されなかったと推定される[41]。
煙突は野風型と比べて若干高く、傾斜が大きい[43]。 1931年(昭和6年)から翌年頃、煙突に雨水除けキャップを設置して頂部形状が変化した[18]。
第4艦隊事件後の1935年(昭和10年)から翌年に性能改善工事を実施したと思われ、6m通船も撤去されたらしい[18]。 この時点で常備排水量は1,784トンに増加し、速力は34ノットに低下していた[18]。
後期建造となる追風、疾風、朝凪、夕凪の4隻は設計を若干改め、兵装も変化している。 基本計画番号はF41D[21][19]。
「あ号作戦後の兵装増備状況調査」[49]によると1944年8月の「旗風」では、2番、4番12cm砲を撤去し、その跡や上甲板などに機銃を増備、25mm連装機銃4基、同単装12挺、13mm連装機銃1基、同単装4挺を装備した。また3番魚雷発射管を撤去、小発と思われる2隻をその跡に搭載した。13号電探は前部マストに装備した。爆雷投射機、同投下軌道は描かれていない。
同じく1944年7月の「夕凪」の場合[49]、12cm砲2門、3番魚雷発射管の撤去は「旗風」と同じだが、機銃は25mm連装4基、同単装5挺となっている。搭載艇は図に描かれておらず、13号電探は後部マストとなっている。その他八一式爆雷投射機2基、爆雷投下軌道2条も描かれている。
であったとされている。 他方では、
を装備していたという証言も残っている。
八八艦隊計画による大建艦計画により艦名不足が心配され神風型[II]、若竹型より駆逐艦は番号名となった。しかしワシントン軍縮条約により計画は中止、艦名不足の心配は無くなり1928年(昭和3年)8月1日付(同年6月1日、達第80号)で、神風型駆逐艦(第一号型駆逐艦)、若竹型駆逐艦(第二号型駆逐艦)、睦月型駆逐艦(第十九号型駆逐艦)、吹雪型駆逐艦(第三十五号型駆逐艦)等の固有艦名へ改名した[57]。
初期の3隻は艦名に固有名を予定していた[72]が、実際の命名は番号名をつけられた[58][68][70]。 1924年(大正13年)4月24日に「第一駆逐艦」は「第一号駆逐艦」などに改められた[59]。 1928年(昭和3年)8月1日に番号名の駆逐艦は全て固有名に改名した[60]。
当初予定艦名 | 命名 | 1928年改名 |
---|---|---|
清風 | 第一駆逐艦 | 神風 |
軽風 | 第三駆逐艦 | 朝風 |
真風 | 第五駆逐艦 | 春風 |
第七駆逐艦 | 松風 | |
第九駆逐艦 | 旗風 | |
第十一駆逐艦 | 追風 | |
第十三駆逐艦 | 疾風 | |
第十五駆逐艦 | 朝凪 | |
第十七駆逐艦 | 夕凪 |
横須賀鎮守府籍の神風と峯風型の野風・沼風・波風で編成。1920年(大正9年)10月13日付で舞鶴鎮守府に転出した磯風型駆逐艦からなる先代に続く三代目の第一駆逐隊である。編成未了のまま第二艦隊第二水雷戦隊に投入され、二水戦在籍中に編成が完結した。長らく二水戦で活動したが、大正15年度より最前線部隊からはずれ、大湊での北方警備に就くことが多くなる。太平洋戦争中も解隊することなく北方警備を継続した。末期に南方に転戦し、神風が終戦まで残存した。峯風型では、北方任務中に損傷離脱した波風が再投入されることなく残存した。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の戦歴は各艦の項目を参照。
横須賀鎮守府籍の朝風・春風・松風・旗風で編成。1922年(大正11年)12月1日に峯風型駆逐艦4隻からなる先代第五駆逐隊が第四駆逐隊に改名した後に続く、四代目の第五駆逐隊である。
佐世保鎮守府籍の追風・疾風・朝凪・夕凪で編成。1924年(大正13年)12月1日に解隊した神風型駆逐艦 (初代)からなる先代に続く、三代目の第二十九駆逐隊である。
佐世保鎮守府籍の朝凪・夕凪で編成。南洋調査のための護衛として上記二十九駆逐隊を分割したが短期間で解隊。
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