Loading AI tools
幕末の土佐藩士 ウィキペディアから
神山 郡廉(こうやま くにきよ、1829年2月16日(文政12年1月13日)- 1909年(明治42年)8月20日[1])は、幕末の土佐藩士、明治期の内務官僚・政治家。県令、元老院議官、貴族院男爵議員、錦鶏間祗候。通称・左多衛。雅号・郡風、君風[2]。
土佐国高知城下中島町で、土佐藩士・神山久左衛の五男として生まれ、神山左平の養子となる。吉田東洋により藩の要職に抜擢された。慶応元年(1865年)、大目付に就任。慶応2年(1866年)、第二次長州征討に当たって、家老・福岡宮内と共に広島に赴き、幕府からの出兵督促を拒否した。慶応3年10月 (1867年)の大政奉還において、建白書に連署した[2]。
王政復古後、慶応3年12月12日(1868年1月3日)、参与に就任。以後、徴士、内国事務掛、行政官弁事、弁官事、職務進退撰挙掛、刑法官副知事などを歴任。明治4年11月25日(1872年1月5日)、長浜県権令に就任。その後、長浜県が犬上県に改称された[3]。
明治5年9月28日(1872年10月30日)、島根県権令に転任。島根県集議所の開設、殖産振興、教育振興に尽力[4]。1873年(明治6年)10月、和歌山県権令に転任。1874年(明治7年)10月、同県令に昇進。1875年(明治8年)6月から同年10月まで五等判事を兼任[3]。10年という長期間、県政を担った[5]。1883年(明治16年)10月20日、県令を依願免本官となる[3]。
1884年(明治17年)1月、元老院議官に就任。1887年(明治20年)5月24日、男爵を叙爵[6]。1888年(明治21年)2月、高等法院陪席裁判官に就任[3]。1890年(明治23年)7月10日、帝国議会開設に当たり貴族院男爵議員に選出された[7]。同年10月20日、錦鶏間祗候となる[8]。1904年(明治37年)7月10日、任期満了により貴族院議員を退任[7]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.