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日本の幕末から明治にかけての医師、陸軍軍人 ウィキペディアから
石坂 惟寛(いしざか いかん、天保11年2月22日[1][注 1](1840年3月25日) - 大正12年(1923年)7月29日[1][注 2])は、日本の幕末から明治にかけての医師、陸軍軍人(軍医官)。最終階級は陸軍軍医監(少将相当官)。幼名、逸蔵[1]。
備前国(現岡山県)出身[1]。赤松秀の二男として生れ、岡山藩医・石坂堅壮の養子となる[1]。1860年(万延元年)9月、適塾に入門し西洋医学を学び、のちに岡山藩侍医となる[1]。
1872年(明治5年)1月、陸軍軍医となり二等軍医副に任官[1]。1875年(明治8年)11月、広島鎮台病院長に就任[1]。1877年(明治10年)2月から10月まで西南戦争に出征[1]。その後、陸軍本病院第1課長、大阪鎮台病院長、東京陸軍病院治療課長、陸軍軍医本部庶務課長、陸軍省医務局第1課長などを歴任し、1887年(明治20年)5月、軍医監に進級[1][2]。同年5月から翌年12月まで陸軍軍医学舎長(後の陸軍軍医学校長)を務めた[1][2]。
1888年(明治21年)12月、第1師団軍医部長兼衛生会議議長となり、1894年(明治27年)8月、軍医総監(少将相当官)に進級し第1軍軍医部長に発令され翌月から日清戦争に従軍した[1][2][3]。1895年(明治28年)9月、台湾総督府陸軍局軍医部長となり、翌年1月まで務め5月から休職した[1][2][3]。1896年(明治29年)12月、第4師団軍医部長として復帰した[1][2][3]。
1897年(明治30年)3月、制度改正により軍医監(少将相当官)となった[1]。
同年9月、陸軍省医務局長となり、翌年8月に休職した[1][2][3]。1900年(明治33年)12月1日、後備役に編入され[4]、1905年(明治38年)10月16日に退役した[5]。墓所は多磨霊園。
なお、参考文献には貴族院議員を務めたとの記述があるが、『議会制度百年史 貴族院議員名鑑』などには記載が無く誤りと思われる[注 3]。
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