石川総陽
日本の江戸時代中期の大名。相模小田原藩2代藩主大久保忠増七男で、常陸下館藩初代藩主石川総茂養子。下館藩2代藩主。従五位下播磨守 ウィキペディアから
石川 総陽(いしかわ ふさはる)は、常陸下館藩の第2代藩主。伊勢亀山藩石川家分家4代。
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生涯
元禄6年(1693年)、相模小田原藩主・大久保忠増(藩祖石川総長の従兄の子)の七男として誕生した。正徳3年4月9日(1713年5月3日)、先代藩主・石川総茂の養嗣子となって総陽と名を改め、同月13日(5月7日)に将軍・徳川家継に拝謁し、同年12月21日(1714年2月5日)に従五位・播磨守に叙任した。
享保18年9月16日(1733年10月23日)の総茂の死去により、同年11月4日(12月9日)に遺跡を継ぎ雁間詰となる。元文5年10月7日(1740年11月25日)、養嗣子の総候に家督を譲って隠居し、延享元年(1744年)4月10日に52歳で死去した。
系譜
父母
養子
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