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鎌倉学園高校卒業後の1972年に日本大学へ進学し[1]、竹田昭夫監督のスパルタ指導で頭角を現す[2]。在学中は主将も務め[3]、1974年の関東学生では倉本昌弘・中川泰一に次ぐ3位に入って日大勢が上位を独占した[4]。
卒業後の1976年7月にプロ入りし[5]、1978年の中部オープンでは井上幸一・鈴村久に次ぐと同時に内田繁・石井裕士・野口英雄・大場勲・豊田明夫を抑えての3位に入った[6]。
1979年の関西プロでは55人がアンダーパーを記録する出足となった初日、コースレコードタイの65を出し首位に並んだ石井裕・内田から1打差の3位タイでスタートした[7]。
KBCオーガスタでは2日目に関水利晃・呂西鈞(中華民国)・藤木三郎と共に69をマークし、吉川一雄・前田新作・井上・陳志明(中華民国)とも並んでの6位タイ[8]に着けた。
1980年の新潟県オープンでは初日を内田袈裟彦・船渡川育宏に次ぐと同時に田原紘・天野勝・金井清一・中嶋常幸を抑えての3位[9]でスタートし、最終日には金井・横井ジョウジ・内田袈・船渡川・上原宏一・栗原孝・田原を抑えて優勝[10]。
1982年には広島オープンで川田時志春・中村通・海老原清治・高井吉春・森憲二と並んでの9位タイ[11]に入り、日本オープンでは初日に4アンダー67をマークし、尾崎将司・中嶋ら4人に1打差付けて首位に立つ[12]。
1983年のKSB瀬戸内海オープンではプロ3勝目を睨み首位から5打差18位で最終日の朝を迎えるが、逆転優勝も見据え、張り切ってバッグ置き場に向かったところ、代わりに契約しているブリヂストン社製の、鮮やかな銀色のバッグにローマ字で縫い付けてある刺繍の選手名は『Hirosi Isii』であった[3]。メーカーの広告塔である契約プロには、シーズン初めに名前入りのバッグがクラブと共に提供されるが、デザインは同じで、違うのはローマ字表記の名前だけであるほか、ファーストネームの頭文字は“HIROSI”と"HIDEO“でどちらも“H”と、さらに紛らわしかった[3]。予選落ちの石井裕に誤ってバッグを持ち帰られた石井秀は、地元・香川出身プロである鈴木規夫のミズノ社製のクラブを借り、パープレーの72で回ったが、追い上げならず18位に終わった[3]。
1983年のペプシ宇部トーナメントでは好コンディションで58人がアンダーパーというバーディラッシュの初日[13]を新関善美、ベン・アルダ(フィリピン)と並んでの3位タイ[14]でスタートし、2日目には上田鉄弘と並んでの2位タイ[15]、3日目には牧野裕・上田と並んでの3位タイ[16]とし、最終日には尾崎健夫・牧野と並んでの5位タイ[17]に入った。
1983年のブリヂストントーナメントでは初日に69で安達典夫・長谷川勝治、ヘール・アーウィン(アメリカ)、謝敏男(中華民国)と並んでの2位タイ[18]でスタートし、2日目も69で謝敏・湯原信光と並んでの2位タイ[19]に留まったが、3日目には75を叩いて中嶋・尾崎将・井上と並んでの9位タイ[20]に後退。
1984年には千葉県オープンで佐野修一・池原厚と並んで泉川ピートの2位タイ[21]に入り、かながわオープンでは初日に新関・矢部昭・大町昭義・尾崎将・金井・稲垣太成を抑えると同時に草壁政治・吉武恵治と並んでの首位タイ[22]スタートを決めた。
1985年のかながわオープンでは15番パー5、続く16番パー4で連続イーグルを記録し[3]、富山県オープンでは初日を川田時志春と並んでの5位タイ[23]でスタートし、最終日には入江勉・森下正美・金本章生と並んでの7位タイ[24]に入った。
1991年のフィランスロピータケダカップを最後にレギュラーツアーから引退[25]。
その後は神奈川県横須賀市で産廃処理業を経営する傍ら、約120名の生徒を抱えてレッスンをしていたほか、日本プロゴルフ協会副会長を務めた[26]。
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