田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉6月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月6日)は、日本の内科医、小児科医、実業家。イチジク製薬創業者・初代社長。「イチジク浣腸」の考案者。
大正時代、東京の開業医・田村廿三郎は昼も夜も発熱やひきつけなどを起こした子供の急患の往診に走り回っていたが、その多くが注射器で浣腸を行って排便させると治ることを見つけ、便秘で苦しむ子供を早く楽にしてあげたいという思いから、家庭で簡単に使える浣腸の開発を行った。浣腸の形状には田村廿三郎が往診の時に患者の家の番犬を沁みる液体で撃退するため考案したスポイトを採用した。素材に採用したセルロイドは硬くて割れやすいため、薬液が漏れないよう皮膜を被せた。挿入部は、長すぎると直腸の粘膜を傷付け、短すぎると薬液が直腸に届かないため、肛門から直腸までの長さにした。挿入部の先端の穴は、広すぎると薬液が勢いよく出なく、狭すぎると薬液が少ししか出ないため、ちょうどよい口径に調節した。そして、何よりも、肛門を痛めないように、挿入部を滑らかにする加工技術の向上に多くの時間と心血を注いだ。1953年(昭和28年)に同年から普及し始めたポリエチレンを素材に採用し、セルロイドの欠点を解消した[21][22][23][24][25]。
注釈
田村廿三郎の父の田村篤司が診療していた胃癌の患者が亡くなり、田村篤司ら4人の医師が病理解剖を行った。田村篤司からその亡くなった患者への慰霊と感謝の意を込めた文が刻まれている墓碑が新潟県新潟市南区朝捲の東福寺の境内に立っている[4]。
出典
田村廿三郎は新潟中学校の教員について「少しの怒気も含まず、諄々と諭すやうな声で帰校を促している様は興奮している僕さへも気の毒な感じがした」と述べている。— 田村廿三郎「新潟商業学校襲撃事件の思い出」『半世紀』1959年。『青山百年史』106頁。 『新潟新聞』1905年10月6日、1面 - 『新潟新聞』1905年11月7日、2面。 「イチジク浣腸の歴史」「子どもの急病で困ったときは、浣腸を!」『Happy-Note』2014年夏号、草刈章[著]、ミキハウス子育て総研、2014年。
- 「田村廿三郞」「東京府」169頁、『日本醫籍錄』第1版、医事時論社[編]、医事時論社、1925年。
- 「田村廿三郞」「東京府」138頁、『日本醫籍錄』第4版、医事時論社[編]、医事時論社、1929年。
- 「田村廿三郞」「東京府」165頁、『日本醫籍錄』第7版、医事時論社[編]、医事時論社、1932年。
- 「田村廿三郞」「東京府」154頁、『日本醫籍錄』第11版、医事時論社[編]、医事時論社、1936年。
- 「田村廿三郞」「東京府」279頁、『日本醫籍錄』第17版、医事時論社[編]、医事時論社、1942年。
- 「田村廿三郞」「東京都」156頁、『日本醫籍錄』第19版、医学公論社[編]、医学公論社、1951年。
- 「田村廿三郎」「東京都」271頁、『日本醫籍錄』第24版、医学公論社[編]、医学公論社、1956年。
- 「田村廿三郎」「東京都」320頁、『日本醫籍錄』第26版、医学公論社[編]、医学公論社、1958年。
- 「田村致道」「東京府」72頁、「齒科醫師之部」『日本醫籍錄』第2版、医事時論社[編]、医事時論社、1926年。
- 「田村致道」「神奈川縣」『日本齒科醫籍錄』211頁、日本歯科医師会[編]、歯苑社、1930年。
- 「田村幸庵」「鷲卷村誌」8頁、『中蒲原郡誌 上編』新潟県中蒲原郡役所[編]、新潟県中蒲原郡役所、1918年。
- 「田村幸庵」「鷲卷村誌」『中蒲原郡誌 上編』612頁、新潟県中蒲原郡役所[編]、名著出版、1973年。
- 「田村幸庵」「鷲巻村誌」『中蒲原郡誌 白根市編』58頁、新潟県中蒲原郡役所[編]、臨川書店、1986年。
- 「田村幸庵」「鷲卷村誌」『新潟県 精髄 中蒲原郡誌〈上編〉』72頁、新潟県中蒲原郡役所[編]、千秋社、2000年。
- 『白根市史 巻七 通史』白根市教育委員会[編]、白根市教育委員会、1989年。
- 『白根市史料 第六集』白根市史編さん室[編]、白根市史編さん室、1980年。
- 「三校レースに就ての紛爭」『新潟新聞』1905年10月6日、1面、新潟新聞社、1905年。
- 「三校レース紛爭の結果」『新潟新聞』1905年10月9日、2面、新潟新聞社、1905年。
- 「縣立両校の紛騷 事態愈よ重大」『新潟新聞』1905年10月11日、2面、新潟新聞社、1905年。
- 「中學 商業 兩校生徒の爭鬪」『新潟新聞』1905年11月5日、3面、新潟新聞社、1905年。
- 「中學生大擧して商業學校を襲ふ」『新潟新聞』1905年11月7日、2面、新潟新聞社、1905年。
- 「中學生の處分」『新潟新聞』1905年11月13日、2面、新潟新聞社、1905年。
- 「中學校長事務取扱」『新潟新聞』1905年11月29日、3面、新潟新聞社、1905年。
- 「多田元新潟中學校長」『新潟新聞』1905年12月6日、2面、新潟新聞社、1905年。
- 『新潟県大百科事典 上巻』新潟日報事業社[編]、新潟日報事業社、1977年。
- 『新潟県大百科事典』復刻デスク版、新潟日報事業社出版部[編]、新潟日報事業社出版部、1984年。
- 『新潟県教育百年史 明治編』新潟県教育百年史編さん委員会[編]、新潟県教育庁、1970年。
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- 『青山百年史』新潟県立新潟高等学校[編]、新潟高等学校創立百周年記念実行委員会、1992年。
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- 『私の履歴書』田中耕太郎[著]、春秋社、1961年。
- 『私の履歴書 第十三集』田中耕太郎・ほか[著]、日本経済新聞社、1961年。
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- 「円歌師匠と語る(思い出) (PDF) 」『青山同窓会會報』第2号、4面、田中利助[話]、湊元克巳[記]、青山同窓会、1966年。
- 「イチジク浣腸」『餅屋の論理』19-27頁、TBS[編]、ザ・ワークス[監修]、ワニブックス、1992年。
- 「イチジク浣腸」「家庭薬ロングセラー物語」『家庭薬ロングセラーの秘密』14-15頁、家庭薬研究会[編著]、全国家庭薬協議会[協力]、薬事日報社、2010年。
- 「イチジク浣腸の歴史」「イチジク」「果実の伝説」『樹木の伝説』77-78頁、森真弓[著]、秦寛博[編著]、新紀元社、2011年。
- 「イチジク浣腸」『ファルマシア』第50巻第2号、154-155頁、三宅貴子[著]、日本薬学会、2014年。
- 「イチジク製薬株式会社 (PDF) 」『VoltAge21 (PDF) 』第92号、1-5頁、日立産機システム、2017年。