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田中 治彦(たなか はるひこ、本名同じ、1946年〈昭和21年〉8月15日 - )は、日本の彫刻家、ジュエリーアーティスト。
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東京府東京市日本橋区室町(現:東京都中央区日本橋室町)出身の父と東京府東京市下谷区金杉(現:東京都台東区下谷)出身の母の子として疎開先の東京都世田谷区松原町で生まれた。
戦争による財産喪失の影響が続き成人までの生活費と学費意外に親からの援助は無かった。最終校は東京都世田谷区三軒茶屋にあった日本大学農獣医学部(この学部は1995年12月に日本大学生物資源科学部等に改組されて今はない)。
東京育ちの後、1986年(昭和61年)東京都港区六本木三丁目から山梨県北巨摩郡高根町字念場原(現:山梨県北杜市高根町清里)に移住した。家は代々浄土真宗大谷派で、信仰は仏教。菩提寺は東京都台東区寿にある善照寺。
学生時代に出かけたパリのギメ美術館で見た日本の勾玉の形と歴史に心を揺さぶられて物作りに入る。この影響のため彫刻からジュエリーに到るまでの作品全てが立体物である。
芸術・美術学校及び関連する教育を一切受けなかった芸術家で、自動車工場で金属加工をながめ、歯科医院で金細工を知り、また寺で内面を聴くなど独学で習得した技法と沢山の出会いから目覚めた感性により新しい分野の作品が次々と創造されている。木・貝・漆・宝石・鉄・貴金属・空き缶からパン等、異素材の組み合わせだがテーマは一貫して「こころを表す」。
田中が多くの人に語る言葉がある、「制作技術の頂点を極めることは素晴らしい。しかし私にとっての彫刻は、生きることへの問いかけ、心の叫びをいかに形にあらわすかだ。素材、技法はそのためにある。」 "人間の精神性"を基にした独創性作品の評価は海外でも多く1982年から1984年に掛けてイギリス大英博物館が作品3点を購入している。日本の皇族にも鑑賞や購入がある。
「芸術家が弟子あるいはスタッフに加筆させたらそれは贋作だ。」こう言ってアトリエには誰も入れないで一人で制作するため日数がかかり、作品数が極端に少なく美術商・ギャラリーに出回る事は殆どない。
1979年から「青春の日本列島」「モーニングジャンボ奥さま8時半です」「木曜スペシャル」「11PM」など、出演が急増した。その結果、制作の妨げになり1982年から辞退を開始1983年には出演を完全に止めた。
1986年に東京から山梨県に移動したのもこの件が大きく影響している。この後、本人がマスメディアに登場することはなくなった。
3枚の写真は、ILBS(国際夫人福祉協会)主催 田中治彦作品展 会場内でのレセプション風景。
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