滝川具章
日本の江戸時代前期~中期の武士。江戸幕府旗本滝川利貞三男で、具章系滝川氏(旧常陸片野藩主家分家)初代当主。従五位下相模守・丹後守・備中守・山城守 ウィキペディアから
滝川 具章(たきがわ ともあきら)は、江戸時代の旗本。村上源氏北畠庶流滝川家(常陸片野藩主滝川雄利の子孫)分家初代当主。通称は三郎四郎、官位は従五位下、相模守、備中守、丹後守、山城守。
生涯
寛永21年(1644年)、旗本滝川利貞の三男として生まれた。母は旧片野藩主滝川正利の娘[1]。万治3年(1660年)、初めて徳川家綱に御目見した[2]。寛文3年(1663年)、譜代大名・旗本の庶子120人が召しだされて書院番に入番したうちに選ばれて番士となり[3]、寛文5年(1665年)に廩米300俵を与えられた[1]。
寛文10年(1670年)、中奥番を経て[4]奥小姓に登用され[5]、200俵加増の上[6]従五位下相模守に叙せられた[7]。延宝5年(1677年)に500俵を加増されたが[8]、延宝8年(1680年)に家綱が死去したのに伴って小姓を辞職し、寄合に列した[1]。
元禄5年(1692年)、目付に任命されて復職[9]。元禄9年(1696年)、京都町奉行に昇進[10][注釈 1]、近江国滋賀郡内に500石を加増された[1]。元禄10年(1697年)、廩米1000俵に替えて滋賀郡と蒲生郡のうちに高1000石の知行を与えられ、都合近江国内1500石を領する[1]。
ところが元禄15年(1702年)10月、江戸に召還の上、能力不足[注釈 2]として京都町奉行を免職され、小普請入り[注釈 3]を命ぜられた[1][11][12][注釈 4][注釈 5]。
系譜
- 父:滝川利貞
- 母:滝川正利の娘
- 正室:酒井忠勝(出羽庄内藩主)の娘 – 初め松平忠利(旗本五井松平家嫡子)室。夫の早逝後、具章に再嫁。
- 長男:滝川利忠(? - 1701) – 父に先立って死去。
- 側室:家女
分家邦房の婿養子利行が所領300石を返上して具英の所領1200石を継ぎ、子孫は1200石の中級旗本として幕末まで続いた。鳥羽・伏見の戦いの戦端を開いた大目付・滝川具挙はこの家の幕末の当主である[14]。
参考文献
脚注
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