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日本の教育者・官僚 ウィキペディアから
湯原 元一(ゆはら もといち、1863年9月24日(文久3年8月12日) - 1931年(昭和6年)10月4日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、文部官僚。号は易水。
東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)および東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)校長、東京高等学校(東京大学教養学部の前身の一つ)初代校長を歴任した。
佐賀藩士肥前石井氏家に生まれる[1]。 実父は医師。幼少時に母方の湯原家を継ぐ。幼少期、佐賀藩藩校で学び、のち、それを改造した勧興小学校(佐賀藩校弘道館の流れを汲む)で学んだ[2]。実父の勧めもあって、東京帝国大学医学部に進学し、卒業。しかし、医師にはならずに文部省に入省する。1889年(明治22年)3月から福岡県立尋常中学修猷館を皮切りに[3]、全国各地の公立尋常中学校で教諭として教鞭をとる。新潟県庁、北海道庁に出向し、教育行政の指揮にあたった後、再び教育の現場に復帰し、第五高等学校教授に就任。その時、同僚に夏目漱石や小泉八雲がおり、親交を深める。1907年(明治40年)には東京音楽学校長(後の東京藝術大学)に就任。1917年(大正6年)には東京女子高等師範学校長(後のお茶の水女子大学)に、1921年(大正10年)には東京高等学校[4]初代校長に就任した。1930年7月1日、東京高等学校名誉教授となる[5]。
湯原の教育姿勢は、欧米流の自由主義教育を基調とし、生徒を理不尽に縛らずに、主体性を重んじたという。また、過去の慣例にとらわれず、学校改革も推進し、有能な教師を抜擢したりした。日本の童謡の先駆者吉丸一昌は、第五高校時代の教え子であり、湯原が東京音楽学校長に就任した際、教授に抜擢した人物であった。
小学唱歌教科書編纂委員会委員長として芳賀矢一、吉丸一昌らと共に「故郷」「春が来た」などの「尋常小学唱歌」の編纂に関わった。
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