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日本の大村藩士、官僚、政治家 ウィキペディアから
渡辺 清(わたなべ きよし、天保6年3月15日(1835年4月12日) - 明治37年(1904年)12月30日)は、江戸時代末期の大村藩士、明治時代の官僚、政治家。元は諱を武勝、通称を清左衛門と名乗った。号は東山。
肥前国大村に大村藩士・渡辺巌の長男として生まれる。早くから尊王倒幕を提唱。慶応3年には藩内の佐幕派の粛清を藩主に進める[2]など弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として活動した。
鳥羽・伏見の戦いの直前、大津から京都に侵攻する旧幕府軍を阻止するために大村藩兵50名を率いて大津に入るが、他藩は出兵を躊躇したために孤立してしまう。しかし、渡辺ら大村藩兵を大軍と誤認した旧幕府軍が大津への進撃を断念したため、京都を挟み撃ちにする旧幕府軍の戦略は挫折し、その事を知った新政府から大村藩は戦後に厚遇を受けることになった[3]。
江戸城総攻撃予定日の前日に、英国公使ハリー・パークスと会見し、パークスが江戸攻撃には反対である旨を西郷隆盛に伝えた(江戸開城)。
戊辰戦争では、東征軍監、奥羽追討総督参謀として従軍し、磐城の戦いなどに参戦。その功により明治2年(1869年)6月2日に賞典禄450石を受けた[4]。続いて6月10日には三陸と磐城地域の巡察使付属を兼ねた[5]。同年中に巡察使が按察使に変更され、さらに按察使府が設けられると渡辺は三陸両羽磐城でも按察使府の判官となった[6]。
明治維新後は政府に出仕。徴士民部官権判事、同権大丞、民部大丞、厳原県権知事、大蔵大丞などを歴任。明治7年(1874年)9月、福岡県令となり、同14年(1881年)7月まで務め、退任後に元老院議官に就任。
明治20年(1887年)5月24日、戊辰戦争の功により男爵を叙爵した[7]。明治23年(1890年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され死去するまで在任した[8]。同年10月20日、錦鶏間祗候に任じられた[9]。
明治24年(1891年)6月、福島県知事に就任し、同25年(1892年)8月に退任した。
その他、高等法院予備裁判官などを務めた。
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