水野忠実 (紀伊新宮藩主)
紀伊新宮藩主 ウィキペディアから
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水野 忠実(みずの ただざね)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)[1]第7代藩主。諱は忠奇(ただより)とも伝わる。初名は忠寛(ただひろ)。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 寛延2年11月23日(1750年1月1日) |
死没 | 文政5年4月25日(1822年6月14日) |
改名 | 福次郎(幼名)→忠寛→忠実 |
別名 | 忠奇 |
戒名 | 法心院殿永持日顕大居士 |
墓所 | 戒光寺(東京都新宿区) |
官位 | 従五位下・土佐守、対馬守、飛騨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 紀伊新宮藩主 |
氏族 | 水野氏 |
父母 | 父:水野守鑑、養父:水野忠興 |
兄弟 | 忠直、忠実、大聖院長昇 |
妻 | 正室:石川総候の娘 |
子 |
範明、延寿、井戸清眦、村上喜龍 忠雅、娘(生駒親章婚約者) 娘(諏訪頼伊室)、娘(木下俊隆室) 娘(朽木賢綱室)、娘(岩本正修室) 娘(永田直住養女)、他娘2人 養子:水野忠啓、養女:(生駒親章室) |
寛延2年(1749年)11月23日、旗本水野守鑑の次男として生まれる。幼名は福次郎。父・守鑑は旗本水野忠伸の三男であり、旗本水野守満(水野忠守の次男・守重の子孫)の養子となっていた。
同族[2]である紀伊新宮藩主・水野忠興の養子となり、宝暦13年(1763年)6月28日に養父が死去したため、同年8月6日に跡を継いだ。同年9月1日、第10代将軍・徳川家治に初御目見し、同年12月9日には従五位下・土佐守に叙任する。
文政5年(1822年)4月25日、死去。享年73(満72歳没)。嫡男の範明は文化2年(1805年)に早世していたため、家督は範明の長男の忠啓が継いだ。
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