比治山神社
広島県広島市南区にある神社 ウィキペディアから
広島県広島市南区にある神社 ウィキペディアから
大国主神、少名毘古神、市寸島比売神、須佐之男神、車折大明神を祀る。
元々は比治山の南の「黄幡谷」と呼ばれる谷に鎮座し、黄幡大明神(おおばんだいみょうじん)・黄幡谷と称していたが、正保3年(1646年)3月に真言宗勝楽寺の境内に遷座し、その鎮守社とされた。寛文年間(1661年 - 1673年)に現在地に遷座し、近隣の村の産土神として信仰された。
1868年(明治元年)の神仏分離の際に、社名を改めて「比治山神社」と称し、勝楽寺は廃寺となり、同寺住職智等は還俗して「志熊新」と改名し当社の社掌となる[1]。1872年(明治5年)、村社に列し、1907年(明治40年)、神饌幣帛料供進社に指定された[1]。
1945年(昭和20年)8月6日、原子爆弾の投下により社殿を焼失し、1954年(昭和29年)に再建された。1959年(昭和34年)、神社本庁の別表神社に加列された。
比治山神社宮司大巳(おおみ)家は初め「大呑」姓で、安芸郡府中総社の社家の出である[2]。大呑家は史書『陰徳太平記』にもでてくる豪傑の出た家柄で、戦国時代、銀山城主武田家の逆鱗にふれ、家伝の古文書の多くを失った[2]。1代目の大呑親詮は1555年に亡くなる[3]。
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