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日本の兵庫県加古郡稲美町の広域地名 ウィキペディアから
母里(もり)は、兵庫県加古郡稲美町の一地域である。本項ではかつて同地域に所在した加古郡母里村(もりむら)についても述べる。
母里地域は稲美町の東部に位置し、加古川市、三木市、神戸市に接している。面積は約14.15 km2 で稲美町全体の約41% にあたる。
加古川による高位段丘面上にあり、北部には草谷川の谷が入り込み、下位段丘や沖積段丘が形成されている。全体に西に向かってゆるやかに下る地形となっている。草谷川の両側の段丘崖には斜面樹林がある。
上層は、赤粘土に真土と砂を混じり、中層は粘土、下層は小石混じりの粘土である地質である[1]。井戸水などの水資源に乏しかったが、加古大溝や淡河川疎水の完成により、稲作が可能になった。
2012年度末の母里地域の人口は5,730人、世帯数は2,005世帯、一世帯当たり人員は2.86人となっている[2]。
1889年、蛸草新村、草谷村、下草谷村、野谷新村、印南新村、野寺村の6村を合併して母里村が発足した。村の名称は、播磨風土記の「望理郷」に由来すると言われる。播磨風土記によれば、景行天皇巡幸の時、印南川(後の加古川)をみて「曲甚美(まがりいとうるわし)」と褒め称えて「望理(まがり)」と称された。黒田節の逸話で知られる戦国武将・母里友信ゆかりの母里姓ゆかりの地とされる。また1875年、この地区の小学校はすでに母里小学校と称されていたこともあって村名を母里としたものとも考えられる[3]。
代 | 氏名 | 在任期間 |
---|---|---|
1 | 岩本 須三郎 | 1889年5月〜1894年4月 |
2 | 北條 直正 | 1894年4月〜1906年11月 |
3 | 船曳 正三 | 1906年11月〜1908年4月 |
4 | 大西 猪太郎 | 1908年4月〜1911年6月 |
5 | 魚住 基四郎 | 1911年6月〜1917年10月 |
6 | 藤本 猪太郎 | 1917年10月〜1924年12月 |
7 | 魚住 正継 | 1924年12月〜1946年11月 |
8 | 井澤 誠四郎 | 1947年4月6日〜1948年8月 |
9 | 大西 猪太郎 | 1948年9月〜1950年10月 |
10 | 魚住 正継 | 1951年1月20日〜1955年3月30日 |
古くは飛鳥時代から蛸草村などにおいて耕作が始められ、江戸時代には、野谷新村、蛸草新村、印南新村の新田開発が行われ、農地と集落が形成されてきた。また、この過程で農村水利の確保のため多くのため池が築造された。従って、地域の大半は農地、ため池の農業的土地利用で占められている。ほとんど全域が市街化調整区域である。地域の大部分が農業振興地域で農用地区域の指定も多い。この辺りの農地の多くは、淡山疏水完成後に開墾されるか、畑地から水田化された。圃場整備事業等による農業基盤が進められてきた結果、現在は整備完了後の整然とした美しい農地が広がっている。また、農村総合整備モデル事業により、農道・集落道及び公園などの生活関連施設の整備も進められてきた。
北部の三木市に隣接する4 つの区域には工場が立地しているが、いずれも2005年に特別指定区域としての指定が行われ、下草谷西地区は既存工場の用途変更区域・流通業務施設区域、下草谷中地区及び下草谷東地区は既存工場の用途変更区域・資材置き場等の区域、草谷北地区は既存工場の用途変更区域となっている。また、南部の天満地域内の市街化区域に隣接する区域には既存工場の立地もみられ、全体構想の中でも示されている新たな工業ゾーンの拡大地として位置づけられる。また草谷川沿いの河岸段丘の斜面には保全区域として位置づけられる一定の広がりを有する樹林地が広がっている。
神姫バスが運行されている。
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