日本の映画監督、脚本家 (1932-) ウィキペディアから
武田 有生(たけだ ゆうせい、1932年9月 - )は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者である[1][2][3][4][5]。本名は不明だが[1]、1965年(昭和40年)の監督デビュー作でのみ砂山 義達(すなやま よしたつ[6])と名乗った[1][4][5]。『女のうれし泣き』等、主題歌の作曲家としても知られ、1960年代に盛んになった成人映画の世界にパートカラーの導入を発案した人物であるといわれる[1]。
1932年(昭和7年)9月、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1][2]。
東京都豊島区の東洋音楽専門学校(のちの東洋音楽大学、現在の東京音楽大学)に進学するも、中途退学する[1]。その後、1950年(昭和25年)に新藤兼人らと近代映画協会を結成した吉村公三郎の助監督を務めた[1]。ただし当時のキャリアは、チーフ助監督までには至っていない[7]。その後、1960年代に入って成人映画の世界に入り、1964年(昭和39年)8月に設立されたヒロキ映画[8]でチャンスをつかみ、満32歳であった1965年(昭和40年)7月20日に公開された左京ミチ子主演の『好色あんま日記』で監督に昇進した[1]。同作は、同時代資料である『映画年鑑 1967』あるいは日本映画データベース等でも、いずれも監督は「砂山義達」であると記されており、同名義は同作でのみ使用されたものであった[4][5][9]。成人映画を手がけるようになったのは、斎藤耕一の助監督を経て、とする資料もあるが[10]、武田の監督昇進当時ですら、斎藤はまだ日活でスチル写真のカメラマンを務めていた時期であり、斎藤が斎藤プロダクションを設立して『囁きのジョー』を監督するのは、その3年後(1967年)である[11]。当初はフリーランス的に、シネプロダクションで『禁じられた肌』(1965年)、近代企画で『狙われた女達』(1966年)、と各社で監督を務めたが、1966年(昭和41年)6月に大蔵映画が配給・公開した『女高生地帯』以降、自らの「武田プロダクション」での製作を開始する[5]。「女高生シリーズ」はヒット作品となり、以降も続けられた[1]。
1967年(昭和42年)12月1日に公開された『多情な乳液』、あるいは同年に公開された『女のせい談』でパートカラーを導入している[3][4][5]。日本の成人映画、いわゆるピンク映画の世界にパートカラー導入を発案したのは、武田であるとされる[1]。ただし同作以前にも、本木荘二郎が高木丈夫の名で監督し、同作より3年早い1964年10月14日に公開された『洋妾』(製作シネユニモンド)[12]、若松孝二が監督し同作より2年早い1965年5月に公開された『太陽のヘソ』(製作映広プロダクション、配給国映)[13]が先行して存在し、これらに武田がいかに関わったかは不明である。1968年(昭和43年)8月に公開された『女のうれし泣き』では、ミノルフォンレコード(現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ)の小代一夫(1945年 - )が歌う同名の主題歌を作詞・作曲した[1][14]。主題歌のほかにも作曲活動を行ったというが、「武田有生」では日本音楽著作権協会(JASRAC)に登録されておらず、詳細は不明である[15]。同作以降、多く六邦映画で監督作を発表した[4][5][16]。
『好色一代 無法松』(製作・配給六邦映画、1969年)、『王将定石松葉くずし』(同、1970年)といった、文芸ものの成人映画も手がけた[1][4][5][17][18][10]。『好色一代 無法松』は「六邦映画創立3周年記念超大作」と銘打ったオールスター作品で、港雄一が車夫の無法松を演じたほか、のちに監督に転向する新田栄が北村淳の名で出演している[5]。鈴木志郎康は、練馬映画劇場(東京都練馬区練馬1丁目6番22号、経営・渋谷登志彦[19]、1989年12月閉館)で渡辺護監督の『(秘)湯の町 夜のひとで』(配給関東映配、1970年)に併映された、武田の監督作『畜生道』(製作・配給六邦映画、1970年)を観たといい、ストーリーはあるもののストーリーらしきものがないと『映画の弁証 性と欲望のイメージ』でとりあげて論じている[20]。この時期、撮影技師には東宝出身のヴェテラン技師である遠藤精一[21](船橋登[22][23])と多く組んだ[24]。『女高生のいたずら』(製作・配給中央映画、1969年)、『残酷色情絵図』(製作中央映画、配給葵映画、1970年)、『好色回春物語』(製作・配給葵映画、1970年)の脚本にクレジットされた「中原圭司」は、石森史郎の変名で石森自身は「有生は文芸調のなかなかいい作品を撮ってね。気も合って何本もホンを書いているんだ」と武田を評価していた[10]。
1972年(昭和47年)10月に公開された『女子学生 性の乱れ』を最後にフィルモグラフィが途絶える[1][3][4][5]。このとき武田は満40歳であったが[1][2]、4年後の1976年(昭和51年)に発行された『日本映画監督全集』の武田の項の作品一覧も同作で止まっている[1]。以降の活動は不明である。
東京国立近代美術館フィルムセンターは、武田の監督作のうち、『女のせい談』、『女のうれし泣き』、『女のたこ部屋』、『女高生のいたずら』、『十八才の妖婦』、『性(セックス)診断旅行』 の6作の上映用ポジプリントを所蔵している[3]。2012年(平成24年)8月31日には、神戸映画資料館で『好色回春物語』が16mmフィルムで上映されている[10]。
クレジットは特筆以外はすべて「監督」である[1][3][4][5][17][18]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[3]。
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