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日本の愛媛県喜多郡にあった村 ウィキペディアから
櫛生村(くしうむら)は、1954年(昭和29年)まで愛媛県喜多郡にあった村である。昭和の合併で長浜町に,さらに2005年(平成17年)平成の合併により大洲市となった。現在の大洲市の北西部、伊予灘に面した漁村であった。後に「くしゅう」と呼ばれるようになり、現在の表記は「くしゅう」となっている。
現在の大洲市の北西部。肱川河口の西側、北を伊予灘に面している。中央構造線に沿う形で北東から南西方向に断層崖海岸が走り、背後(南)には斉藤山、張木山や高手山などの500m級の山々を境に大和村に接している。東は、肱川をはさんで長浜。西は出海村に接する。
平地には恵まれない。沖浦は肱川河口の小規模な三角州上に位置し、須沢や櫛生には小規模ながら河川によって形成された砂浜海岸がある。
この節には内容がありません。 (2019年8月) |
櫛生小学校が合併し長浜町となってからも存在していたが、大洲市になってから後の2012年(平成24年)に閉校になり、当村地域に小中学校は現存しなくなった。
藩政期
明治以降
櫛生村の系譜 (町村制実施以前の村) (明治期) 町村制施行時 櫛生 ━━━━━━ 櫛生村 ━━━━━━━━━━━━┓ ┃ 長浜町 ━━━┫(昭和30年1月1日) 喜多灘村 ━━━╋━━ 長浜町 大和村 ━━━┫ 出海村 ━━━┫ 白滝村 ━━━┛ (注記)長浜町ほかの合併まで、及び長浜町の平成の合併の系譜については、それぞれの町村の記事を参照のこと。
農産物では、米、麦、雑穀、大豆、ゴマ、葉タバコ、しいたけ等を産する。平地には恵まれないため、零細規模である。太平洋戦争後、北斜面地が多いものの柑橘栽培が導入された。
道路では、沖浦と対岸の長浜との間に開閉橋で知られる長浜大橋があり、さらに海岸に沿って櫛生、さらに隣村の出海村へとつながってるが断崖が続く。幅員が十分でない区間があり、1956年(昭和31年)には路線バスが転落し、死者9名を出す事故が発生している(長浜町バス転落事故)など、交通事情は悪かった。しかしながら国道378号として次第に整備され、現在は「夕焼けこやけライン」と愛称がつけられている。
櫛生から山越えに豊茂と結ぶ道路もある。
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