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平安時代前期の公卿。橘清友の七男。仁明天皇の外叔父。従二位・右大臣、贈従一位。 ウィキペディアから
橘 氏公(たちばな の うじきみ)は、平安時代前期の公卿。参議・橘奈良麻呂の孫。内舎人・橘清友の七男[1]。仁明天皇の外叔父。官位は従二位・右大臣、贈従一位。井手右大臣と称される。
弘仁元年(810年)に昇殿。左衛門大尉・蔵人を経て、弘仁6年(815年)従五位下・左衛門佐に叙任される。同年姉で嵯峨天皇の夫人であった嘉智子が皇后に冊立されると、弘仁8年(817年)従五位上、弘仁10年(819年)正五位下、弘仁11年(820年)従四位下・右衛門督、弘仁13年(822年)従四位上・蔵人頭兼右近衛中将と急速に昇進する。
弘仁14年(823年)正月に蔵人頭を辞すが、同年4月の淳和天皇の即位に伴って、嘉智子所生の皇子・正良親王が春宮に立てられると、氏公は正四位下に叙せられる。その後、淳和朝では刑部卿・宮内卿を歴任する。天長10年(833年)正月に従三位に叙せられ、3月に春宮・正良親王が即位(仁明天皇)すると、その外戚として参議兼右近衛大将に任ぜられた。
仁明朝では、承和5年(838年)上位3名(藤原良房(権中納言)・源信・源定(いずれも参議))を飛び越えて中納言に、承和9年(842年)には大納言に任ぜられる等、天皇の外戚として順調に昇進する。同年7月に発生した承和の変には関与しなかったが、息子の橘真直らが処罰されたことで右近衛大将を藤原良房と交代している。承和11年(844年)には右大臣に昇進するが、この頃以降、病気により家に籠もりがちとなり、政治に関わりを持たなかった[1]。翌承和12年(845年)従二位に至る。
承和14年(847年)12月19日薨去。享年65。即日従一位の位階が贈られた[1]。薨伝には「太后(嘉智子)弟を以てこの顕要を歴る」とあり、嘉智子の威光により要職を歴任したと記載されている[1]。
注記のないものは『六国史』による。
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