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福澤諭吉の著作による日本の書籍 ウィキペディアから
『学問のすゝめ』(學問ノスヽメ、がくもんのすすめ)は、福沢諭吉の著書のひとつであり代表作である。初編から17編までシリーズとして発行された。初編のみ小幡篤次郎共著。
『学問のすゝめ』 『學問のすゝめ』 | ||
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著者 | 福澤諭吉・小幡篤次郎(初編のみ) | |
訳者 | デヴィッド・A・ディルワースほか | |
発行日 |
初編 1872年(明治5年)2月 二編 1873年(明治6年)11月 三編 1873年(明治6年)12月 四編 1874年(明治7年)1月 五編 1874年(明治7年)1月 六編 1874年(明治7年)2月 七編 1874年(明治7年)3月 八編 1874年(明治7年)4月 九編 1874年(明治7年)5月 十編 1874年(明治7年)6月 十一編 1874年(明治7年)7月 十二編 1874年(明治7年)12月 十三編 1874年(明治7年)12月 十四編 1875年(明治8年)3月 十五編 1876年(明治9年)7月 十六編 1876年(明治9年)8月 十七編 1876年(明治9年)11月 | |
発行元 | 福澤諭吉 | |
国 | 日本 | |
形態 | パンフレット | |
コード |
ISBN 4-00-007154-8 ISBN 4-7664-0879-9 ISBN 4-12-160042-8 ISBN 4-06-159759-0 ISBN 978-4-00-331023-6 ISBN 978-4-7664-1623-7 ほか | |
ウィキポータル 文学 | ||
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1872年(明治5年2月)初編出版。以降、数年かけて順次刊行され、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。
明治維新直後の日本人は、数百年変わらず続いた封建社会と儒教思想しか知らなかった。本書は国民に向かい、日本が中世的な封建社会から、近代民主主義国家に新しく転換したことを述べ、欧米の近代的政治思想、民主主義を構成する理念、市民国家の概念を平易な比喩を多用して説明し、儒教思想を否定して、日本人を封建支配下の無知蒙昧な民衆から、民主主義国家の主権者となるべき、自覚ある市民に意識改革することを意図する。また数章を割いて当時の知識人に語りかけ、日本の独立維持と明治国家の発展は知識人の双肩にかかっていることを説き、自覚を促し、福澤自身がその先頭に立つ決意を表明する。後半の数章で、生活上の心構え等の持論を述べて終わる。
文体は平易ながら、明治維新の動乱を経て新しく開けた新時代への希望と、国家の独立と発展を担う責任を自覚する明治初期の知識人の気概に満ち、当時の日本国民に広く受容された。おそらく近代の啓発書で最も著名で、最も売れた書籍である。最終的には300万部以上売れたとされ[1]、当時の日本の人口が3000万人程であったから実に全国民の10人に1人が買った計算になる。その後も時代をこえてロングセラーとなり、1950年発行の岩崎書店版[2]も数十万部を売り上げた[3]。
人には生まれながら上下の秩序があるとする儒教思想に由来する、それまでの日本人の常識を完全に否定し、人間の平等を宣言した「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という冒頭の一節は著名だが、この「
この引用に対応する下の句とも言える一文は、
「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」
である。つまり、
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている。人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう? それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ」
ということである。
以上の言葉は初編からの引用であるが、虚実渦巻く理想と現実の境を学問によって黎明するといった、全体として学問の有無が人生に与える影響を説いている。 彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷を否定し、また、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分の欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えればかなり先進的な内容だったと言える [5] [6]。
更に古文や漢文については「よきものではあるがそこまでして勉強するものではない」(意訳)と、意義を否定はしないが、世間で扱われている程の価値があるものではない、と言って儒学者や朱子学者が使うような難しい字句のある漢文や古文を学ぶより、まず日常的に利用価値のある、読み書き、計算、基本的な道徳などの「実学」を身につけるべきだと書いている[7]。
本書は数章を除いて、小学校の教科書とするため、もしくは高等教育を受けていない当時の一般国民を読者に想定して書かれている(5編)。そのため当時の基準では平易な文章だといえ、難解な政治思想を説明するため比喩が多く使われている。
本書が執筆された明治初期は、明治国家の国家像が模索されている時期であった。福澤は自由市民による国民主権国家を構想していたが、やがて形成された政府の方針は、主権は天皇に存し、各国民は臣民として天皇の主権下に服す、天皇制国家であった。政府の方針が明確になりだした1882年(明治15年)前後から、福澤は政府の方針を反動として『時事新報』で批判を展開するが、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布を経て、天皇制国家が確立する。忠義や孝行をはじめ、儒教的な価値観を完全に否定した福澤の思想は時代を先取りしすぎ、明治社会下では福澤自身への批判・攻撃を招いた。
『学問のすすめ』への批判は、特に第6編「国法の貴きを論ず」と第7編「国民の職分を論ず」に集中した。第6編では、赤穂浪士の討ち入りは私的制裁であって正しくないと論じる部分が批判の対象となった。
また第7編で主君のために自分の命を投げ出す忠君義士の討死と、主人の使いに出て預かった一両の金を落とし、申しわけなさに並木にふんどしをかけて首をくくった権助の死を同一視し、私的な満足のための死であり、世の文明の役には立たないと論じている。この部分が、楠木正成(楠公)の討死が無益な死と論じたものと解釈されて、批判の対象となった[8]。ただし、福澤自身は楠木正成にはまったく言及していない。
福澤は、上記の批判に対して、慶應義塾 五九樓仙萬(ごくろうせんばん)というペンネームで「学問のすすめ之評」という弁明の論文を記して投稿し、『郵便報知新聞』明治7年11月5日号付録に掲載された。さらに、『朝野新聞』同年11月7日号に「学問ノススメ之評」として転載され、『日新眞事誌』同年11月8 - 9日号、『横浜毎日新聞』同年11月9日号にも掲載された[9]。この投書が掲載されてから、「
有名な作品であるため、他の作品・商品に本書をもじった名前が使われることがある。
初版本は活版印刷で縦18cm・横11.5cm、端書を含め33ページで構成され内容は初編のみとなっている。現存数が少なく、日本全国で10冊ほどが確認されている[11]:14。
大分県中津市内の福沢諭吉旧居記念館内に初版本を展示している。
1968年に日本近代文学館から「名著複刻全集 近代文学館 明治前期 29」として『学問のすすめ 全』(初編)が復刻されている。
小室正紀・西川俊作編 『福澤諭吉著作集〈第3巻〉学問のすゝめ』 慶應義塾大学出版会、2002年、ISBN 978-4766408799 には、『学問のすゝめ 全』(初編)初版本の影印が収録されている。
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