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楽曲 ウィキペディアから
「椰子の実」(やしのみ)は、島崎藤村が明治時代に執筆した詩。昭和に入って曲が付けられた。
1900年(明治33年)6月の雑誌『新小説』に「海草」という総題で発表された誌の一遍で[1]、1901年(明治34年)8月に刊行された詩集「落梅集」に収録されている[2][3]。この詩は1898年(明治31年)の夏、1ヶ月半ほど伊良湖岬に滞在した柳田國男が恋路ヶ浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語り、藤村がその話を元に創作したものである[4][5][6][7]。
- 「椰子の実」
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る
椰子 の実 一 つ
故郷 の岸を離れて汝 はそも波に幾月
旧 の樹 は生 いや茂 れる 枝はなお影をやなせる
われもまた渚 を枕 孤身 の浮寝 の旅ぞ
実 をとりて胸にあつれば新 なり流離 の憂
海 の日 の沈むを見れば激 り落 つ異郷 の涙 思いやる
八重 の汐々 いずれの日にか国 に帰らん
本作の曲は著作権の保護期間中のため、日本国著作権法第32条および米国著作権法第107条によりフェアユースと認められる形式の引用を除き、ウィキペディアへの掲載は著作権侵害となります。また、演奏などの著作隣接権についても注意ください。 歌詞全文はTemplate:歌ネットやTemplate:Genius songを使用した外部リンクにより合法的な参照が可能です。 なお詞については著作権保護期間が終了しました。 |
1936年(昭和11年)7月、日本放送協会大阪中央放送局で放送中だった『国民歌謡』の担当者が作曲家の大中寅二を訪問し、この詩に曲を付すよう依頼。7月9日には曲が完成した。
7月13日から東海林太郎の歌唱で1週間放送した。さらに8月3日からは二葉あき子、11月9日からは多田不二子、12月9日からは柴田秀子がそれぞれ放送した。こうした放送が影響し次第に職場や学校で歌われ始め、12月には東海林太郎の歌唱でポリドールレコードから発売された。
大中本人による混声合唱版・女声合唱版(ともにピアノ伴奏)が存在する。他に多くの人によってさまざまな編成に編曲されており、その中には作曲家の息子である大中恩によるものも含まれる。
2007年(平成18年)には文化庁と日本PTA全国協議会により「日本の歌百選」に選定されており[5][8] [9]、現在でも広く愛唱されている叙情歌である。
渥美半島観光ビューローでは、1988年(昭和63年)から毎年、「椰子の実」の再現を目指し、「遠き島」に見立てた石垣島沖で標識を付けたやしの実を投流するイベントを開催している。投流したやしの実が鹿児島県以北で拾われた場合には、発見者と投入者から数組を伊良湖岬へ招いて対面式が行われる。2020年までに、4個のやしの実が愛知県に漂着し、そのうち3個は伊良湖岬がある田原市に漂着しているが、伊良湖岬・恋路ケ浜へはまだ漂着したことがない[20][21]。
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