森田親三
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森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月25日[1][2] - 1985年(昭和60年)4月25日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。
埼玉県出身[1][2][3]。森田弥之治の二男として生まれる[1]。熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍経理学校(9期)を優等で卒業し見習主計となる[4]。同年12月、三等主計に任官し歩兵第3連隊付となる[1]。1918年(大正7年)2月、第1師団経理部員に就任し、1919年(大正8年)4月、二等主計に昇進[1]。1920年(大正9年)6月から1921年(大正10年)5月まで、経理学校高等科で学び、さらに、1921年5月から1922年(大正11年)5月まで員外学生として学んだ[1]。1922年(大正11年)8月、東京経理部員に就任し、1923年(大正12年)8月、一等主計に進み陸軍省経理局建築課員となる[1]。同主計課員を経て、1930年(昭和5年)8月、三等主計正に進級し支那駐屯軍司令部付となった[1]。
1932年(昭和7年)4月、経理局主計課員に就任し、1934年(昭和9年)8月、二等主計正に昇進[1]。1937年(昭和12年)8月、関東軍倉庫付となり満州に赴任し、同年11月、主計大佐に進んだ[1][3]。1938年(昭和13年)5月、経理局建築課長に発令されて帰国[1][3]。同局主計課長を経て、1941年(昭和16年)3月、主計少将に進級し第13軍経理部長に発令され日中戦争に出征した[1][2][3]。
1942年(昭和17年)11月、第8方面軍経理部長に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]。1944年(昭和19年)6月、主計中将に昇進[1][2][3]。1945年(昭和20年)2月、大本営付となり帰国し、同年4月、経理学校長に就任[1][2][3]。同年7月、経理局長に転じて終戦を迎えた[1][2][3]。同年12月、予備役に編入された[1]。
1945年12月、第一復員省経理局長に就任し、1946年(昭和21年)6月、復員庁技術整理部長に転じ、同年12月に退官した[1]。
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