桂元澄

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桂元澄

桂 元澄(かつら もとずみ)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。安芸国桂城主、桜尾城主。父は桂広澄

概要 凡例桂 元澄, 時代 ...
 
桂 元澄
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桂能登守元澄
毛利博物館「毛利元就座備図」より)
時代 戦国時代
生誕 明応9年(1500年
死没 永禄12年7月5日[1]1569年8月17日
戒名 月山全江禅定門[2]
墓所 応龍山洞雲寺広島県廿日市市
官位 左衛門尉[1]能登守[1]
主君 毛利幸松丸元就
氏族 大江姓毛利氏庶流桂氏
父母 父:桂広澄[1]
兄弟 元澄元忠[1]就延[1]保和[1]
女(国司元相室)[1]
正室:福原広俊の娘[1]
継室:志道広良の娘[1]
継室:円室姓融天野元連の娘)[3]
元延[1]元貞[1]元親[1]景信[1]相琳妙悟冷泉元豊室)[1][3]広繁[1]元盛[1]元時[1]
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生涯

明応9年(1500年)、毛利氏家臣の桂広澄の嫡男として生まれる。

大永2年(1522年)に一族の坂広時が失脚した前後に父・広澄から家督を譲られたようで、翌大永3年(1523年)に尼子経久鏡山城を攻めた際には、鏡山城主・蔵田房信の叔父である蔵田信直を寝返らせている。同年に毛利元就が毛利家の家督を相続した際には、15人の宿老の一人として起請文に署名している[注釈 1]

大永4年(1524年)、叔父の坂広秀が元就の弟の相合元綱を擁して元就に謀反を起こした際、広秀の実兄であった父の広澄は責任をとって自害した。元澄自身も父と共に自刃をしようとするが、主君元就に止められ、その後は元就の家臣として仕えた。

享禄5年(1532年7月13日の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では3番目に「桂左衛門尉元澄」と署名している[注釈 2][4]

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠等を誓った起請文においては、30番目に「桂能登守元澄」と署名している[注釈 3][5]

天文19年(1551年)の大寧寺の変後は陶家臣の江良賢宣などが桜尾城城番となっていたが、大内・陶氏に反旗を翻した(防芸引分)毛利軍の侵攻によって天文23年(1554年)5月12日に開城し、毛利元就の支配下に入ると、元澄が桜尾城に入城[6]して城主となった。

弘治元年(1555年)の厳島の戦いでは、陶晴賢に偽の内応書を送って、陶軍を厳島に誘き寄せるという軍功を挙げた。厳島と廿日市周辺の支配と管理にあたった。

弘治3年(1557年12月2日防長経略が終わった後の毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、最後の239番目に「桂能登守」と署名する[7]

生涯を通して元就の忠臣であり、天文15年(1546年)の元就の隠居後、あるいは正式に家督が毛利隆元に譲り渡された弘治3年(1557年)以後も児玉就忠と共に元就派の立場を取り、隆元の奉行人である赤川元保らとは度々対立している。

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桂元澄夫妻の墓(洞雲寺)

永禄12年(1569年7月5日に死去[8]。享年70。墓は広島県廿日市市洞雲寺にあり、廿日市市の指定史跡となっている。

なお、元澄の子孫を中心に桂一族は江戸時代には寄組2家、大組12家、他に長府藩右田毛利家の家老に庶子家があり繁栄した。

また、子孫としては明治時代の政治家である木戸孝允(旧名は桂小五郎)、桂太郎(本名は桂清澄)がいる。ただし、木戸孝允は和田氏よりの養子であるので直接的な血縁関係はないが、和田氏は天野元政の子孫と称している為、一応血縁があるとも言える。

系譜

関連作品

脚注

参考文献

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