Loading AI tools
ウィキペディアから
信濃栗田氏は、北信地方の武家氏族のひとつ。本姓は清和源氏の一系統の河内源氏頼清流村上氏の支流で、村上為国の子寛覚が顕光寺(延暦寺系山門派)別当となり信濃国水内郡(のち上水内郡)栗田村に住居して栗田氏となった。鎌倉時代から室町時代までは善光寺(園城寺系寺門派)別当職も世襲し、犬猿の関係にあったはずの両派の寺を支配下に置く有力国人となる[2]。
戦国時代初期までは惣領家の村上氏に従っていたが、川中島の戦いでは武田方(善光寺の里栗田)・上杉方(戸隠神社の山栗田)に分裂した[3]。
天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田氏は滅亡し、栗田国時は越後国へ逃れて上杉謙信・景勝に仕えた。
上杉景勝の会津移封に伴い、栗田国時も信夫郡大森城主(福島県福島市)となり8,300石を与えられた。しかし、慶長5年(1600年)に徳川家康が上杉景勝討伐(会津征伐)へ出陣した際、国時は藤田信吉と共に家康との和睦を主張するが、認められず、反戦派は上杉景勝元より信濃を目指して出奔した。しかし、大森城の南東・信夫郡伏拝(現在の福島市伏拝)の国境で一行150人余と共に上杉景勝の追っ手によって殺害された。
本姓は平氏。家系は桓武天皇を祖とする桓武平氏で、常陸国那珂郡の名族。川崎氏の支流にあたり、下小瀬の古城主・川崎次郎の後裔と伝える。茨城郡六地蔵過去帳に栗田又次郎の名を載せる。家紋は丸に二つ引き、女紋としては九曜の星を用いる。水戸藩の栗田寛もこの一族の末裔という[2]。 なお、佐竹氏の家臣としてもこの栗田氏の名が見える[4]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.