松永 信夫(まつなが のぶお、1921年12月16日 - 2007年9月25日)は静岡県志太郡出身のサッカー選手サッカー指導者。現役時代のポジションはフルバック。「ベルリンの奇跡」の立役者だった松永行は実兄。日本軽金属などに所属し、日本代表として1954 FIFAワールドカップ・予選など、国際Aマッチ4試合に出場した。

概要 松永 信夫, 名前 ...
松永 信夫
名前
カタカナ マツナガ ノブオ
ラテン文字 MATSUNAGA Nobuo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1921年12月16日
出身地 日本の旗 日本静岡県志太郡
没年月日 (2007-09-25) 2007年9月25日(85歳没)
日本の旗 日本、静岡県藤枝市
選手情報
ポジション DF
ユース
日本の旗 志太中学校
日本の旗 東京文理科大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
日本の旗 後藤缶詰
日本の旗 日本軽金属
代表歴
1942-1955[1] 日本の旗 日本 4  (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
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略歴

静岡県立志太中学校(現静岡県立藤枝東高等学校)、東京文理科大学(現:筑波大学)卒業。第二次世界大戦中の1943年に陸軍に徴兵されフィリピンミンダナオ島に配属された経験を持つ[2]

戦後、志太クラブや後藤缶詰でプレーを続け、インド1951年アジア競技大会が開催された際、日本代表に選出されたが、前述の陸軍の経験もあってビザの発給が許可されなかったという[3][4]

1952年に日本軽金属へ入社。日本軽金属を強豪クラブへと発展させた。また日本代表でも1953年から1956年まで主将を務め、メルボルンオリンピック予選突破に貢献するが、本大会は怪我の影響により不参加となった。

1957年に36歳の時に志太クラブの選手兼任監督として国民体育大会優勝に貢献。この時期に現役を退き、所属する日本軽金属の監督に就任。1971年には日本サッカーリーグ2部昇格に導いた。また清水市サッカー連盟理事長、静岡県協会常任理事、同副理事等を長きに渡って務め、今日の発展の礎を築いた。

2007年9月25日、静岡県藤枝市悪性リンパ腫により死去した[5]

所属クラブ

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 4試合 0得点(1954-1955)[1]
さらに見る 日本代表, 国際Aマッチ ...
日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1942001010
1943000000
1944000000
1945000000
1946000000
1947000000
1948000000
1949000000
1950000000
1951004040
1952001010
1953002020
1954300030
1955100010
通算 4080120
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出場

さらに見る No., 開催日 ...
No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1954年03月14日日本の旗東京都明治神宮外苑競技場 韓国△2-2竹腰重丸ワールドカップ予選
2.1954年05月01日フィリピンの旗マニラ インドネシア●3-5アジア大会
3.1954年05月03日フィリピンの旗マニラ インド●2-3アジア大会
4.1955年10月09日日本の旗東京都後楽園競輪場 ビルマ△0-0国際親善試合
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指導歴

  • 志太クラブ
  • 日本軽金属

脚注

関連項目

外部リンク

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