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李 松(り しょう、? - 25年)は、中国の新代の武将・政治家。荊州南陽郡宛県(河南省南陽市宛城区)の人。後漢建国の功臣李通の従弟。更始帝(劉玄)の重臣の李軼との関係は兄弟、従兄弟のいずれになるか不明。李汎の兄。
劉玄が更始帝として即位する以前の李松の事跡は不明である。ただ、李通や李軼と同様に、劉縯・劉秀(光武帝)兄弟の舂陵軍に加わっていた可能性は高い。
更始元年(23年)8月、丞相司直に任じられていた李松は、西屏大将軍申屠建と共に長安攻撃を命じられ、まず武関を攻撃する。まもなく李松、申屠建は、析県(弘農郡)で決起した鄧曄・于匡の援護もあって、武関を破って長安へ攻め入り、王莽を斬り新を滅ぼした。
その後、李松と申屠建は更始帝に皇帝の輿と服を送って、長安への遷都を促し、更始2年(24年)2月、更始帝は長安入りした。李松は趙萌と共に、功臣たちを王に封じるよう更始帝に進言したが、大司馬朱鮪はこれに反対する。しかし、更始帝は李松らの言を容れ、功臣たちを王に封じた。この際に、李松は丞相に昇進し、趙萌と共に内政を総理することになった。
更始3年(25年)1月、方望・弓林が臨涇(安定郡)で劉嬰(孺子嬰)を天子として擁立すると、李松は討難将軍蘇茂と共に更始帝の命令でこれを討伐し、劉嬰・方望・弓林を斬った。同年3月、洛陽駐屯中の朱鮪と合流して赤眉軍を攻撃したが、大敗を喫した。
王匡、張卬らの更始政権の諸将は、赤眉軍の猛威を避けるため、更始帝に長安を捨てて南陽へ引き返すよう進言した。しかし、更始帝はこれを拒否して、長安へ進撃してくる赤眉を迎え撃つよう命じ、王匡・陳牧・成丹・趙萌は新豊(京兆尹)に駐屯し、李松は掫(京兆尹新豊県鴻門亭)に布陣している。ところが、不満を抱いた張卬らが、長安城内で更始帝に対して兵変を起こし、更始帝は新豊へ逃げ込む。更始帝は陳牧・成丹を粛清したため、王匡は恐れて張卬の下へ逃げ込んだ。ここで李松は更始帝の下に駆けつけ、趙萌と共に長安城内で戦闘し、激戦の末に王匡・張卬らを敗走させている。
しかし、王匡らは赤眉軍に降ってこれに合流し、さらに強大化した赤眉軍が長安に迫る。李松は更始帝の命で長安城外へ出撃したが、赤眉との戦闘に敗北して李松は生け捕られてしまう。赤眉は李松を人質にして、長安の城門校尉を務めていた李松の弟李汎を脅し、城門を開かせた。こうして赤眉は長安に入城して更始政権を滅ぼした。李松自身も用済みとされ、間もなく処刑されている。
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