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杉氏(すぎうじ)は日本の氏族であり、椙氏、杦氏とも書かれる。主な流派には以下のものがある。
諸武将の家紋を列挙した『羽継原合戦記』には「きほたん(枝牡丹)は杉かもん」との記述があるが[要出典]、上記のいずれの杉氏を指したものかは不明である。
なお、以下の記事は豊前杉氏についての記述である。
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一般に初代とされる杉貞弘は観応の擾乱当時に足利直冬の武将として記録される人物で、観応3年(正平7年、1352年)には同じく直冬配下の内藤藤時とともに対立勢力の大内弘世と度々交戦している。大内弘世は正平一統後に一時直冬に属したが最終的には離反、この頃に直冬の消息も途絶えた。正平一統以後の杉氏については史料が少ないが、擾乱発生から半世紀後に弘世の子・義弘が起こした応永の乱の頃には完全に義弘の勢力に組み込まれており、『応永記』には大内配下の武将として杉豊後入道(杉豊後守)、杉備中守、杉九郎などの名が見える。
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大内氏の晩期となる義興・義隆の時代には杉八家と呼ばれる8つの家系があったとされるが、その系図は明確ではない。この頃には筑前守護代家・豊前守護代家を中心に九州方面の攻略を務め、大友氏・少弐氏と博多や大宰府の支配権を争った。天文20年(1551年)に発生した陶晴賢の謀反劇では各家で対応が分かれるなど大きく混乱、大内氏の滅亡を生き延びた家も帰属先は対立しあう毛利方・大友方に分かれた。
尊皇攘夷思想家の吉田松陰(杉矩方)や松下村塾創立者の玉木文之進(玉木正韞)を輩出した幕末の毛利藩下士[12]・杉氏はこの傍流とされる。近現代においては実業家の杉道助が松陰の兄・杉梅太郎(民治)を祖父に、保守思想家の小田村四郎が松陰の妹・杉寿子を曾祖母に持つ。
━:実子 ─:養子 =:婚姻
(参考:田中俊資『吉田松陰』)
杉文左衛門政常 │ │ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 七郎兵衛政之 吉田友之允重矩 ┃ ┃ ┌────────────────┐ ┣━━━━━┛ 文左衛門徳卿 又五郎矩定 │ 十郎左衛門矩行 ┃ ┃ │ │ 七兵衛常徳 他三郎矩建 乃木希次 │ 半平 ┣━━━━━━━━┿┳━━━━┓ ┣━━┓ │ │ たき子=百合之助常道 大助賢良 (玉木)文之進 希典 ┃ │ 二十郎矩之 ┃ │ ┠──┐┏━━━━┛ │ │ ┃ │ 彦助 正誼=杉豊子 │ 市佐矩直 ┃ │ ┃ └──┘ ┃ │ 正之 ┣━━━━━━━━┿┳━━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━━━┓ 梅太郎修道(民治) 大次郎矩方(松陰) 芳子(千代) 寿子 艶子 美和子(文) 敏三郎 │ ┃ │ =児玉祐之 =小田村伊之助(楫取素彦) =久坂義助(玄瑞) 相次郎┃ │ ┃ ※先妻 =楫取素彦 ※後妻 ┃ ┃ ┌──┘ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 道助 ┃ │ ┃ ┣━━┿┳━━┳━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━┓ ┃ 玉木正誼=豊子 小太郎 滝子 ┌道子┐ 小三郎 清四郎 梅子 静子 ┃ │ =杉相次郎 │ │ =伊藤勘作 ┃ └─────────┘ └──────────────────庫三─彦熊
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