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本多 忠相(ほんだ ただすけ)は、江戸幕府の旗本。三河西端領の初代領主。西端藩本多彦八郎家初代。
時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長4年(1599年) |
死没 | 天和2年2月26日(1682年4月3日) |
別名 | 清三郎(幼名)、修理 |
墓所 | 東京都港区虎ノ門三丁目(西久保)の天徳寺塔頭の和合院→千葉県袖ケ浦市代宿の乗蓮寺 |
官位 | 従五位下、美作守 |
幕府 | 江戸幕府旗本(書院番頭→留守居役) |
主君 | 徳川秀忠→徳川家光→徳川家綱 |
藩 | 三河西端領主(旗本・8000石) |
氏族 | 本多彦八郎家 |
父母 | 父:本多康俊、母:菅沼定盈の娘 |
兄弟 |
本多俊次、本多忠相、本多俊昌 本多俊之、本多景次、妹(前田利孝室) |
妻 | 正室:稲垣重綱の娘 |
子 |
本多忠将(長男)、中西忠良(次男) 本多忠清(三男)、娘(近藤用将室) 娘(大久保忠時室、のちに離縁) 娘(堀田一輝室)、娘(武田信貞室) 娘(佐久間勝豊室) 養女:大久保忠時の娘(横山元知室) |
慶長4年(1599年)、下総国下篠郷で本多康俊の次男として生まれる。父の康俊は、徳川四天王の筆頭・酒井忠次の次男であるため、忠相は忠次の孫に当たる。また、忠相と父・康俊の兄・酒井家次は伯父・甥の関係にあたる。
大坂の陣両陣に父とともに参加した。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、父とともに近江膳所城を守備した。翌年の大坂夏の陣では、父、兄とともに戦いに参加して武功を挙げる。
その戦功により、元和2年(1616年)に三河国碧海郡に1000石を賜り、西端村(現・碧南市)に陣屋を構える。以後、上総国・下総国内に2500石、碧海郡1500石が加増された。
寛永元年(1624年)には、下総国香取郡において500石が加増された。寛永5年(1628年)には、上総国、下総国内において2000石が加増された。寛永7年(1630年)には、三河国碧海郡内1500石が加増された。
寛永9年(1632年)には、書院番頭に昇進した。翌寛永10年(1633年)には、安房国、上総国内で3000石を賜い、合計8000石の上級旗本となる。寛永15年(1638年)には、徳川幕府下で初めて検地を実施した。
明暦2年(1656年)には留守居役に就任した。寛文12年(1672年)、長男・忠将に家督を譲って隠居した。天和2年(1682年)に84歳で死去した。
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