本埜村
日本の千葉県印旛郡にあった村 ウィキペディアから
概要
都心から50km圏にもかかわらず、水と緑に恵まれた豊かな土地が広がり、毎年冬には越冬のために800羽を越す白鳥が飛来する。
以前は農業を主な産業としていたが、1990年代後半より村西部の千葉ニュータウン(滝野地区)の開発によって人口が激増した。また成田空港が近いこともあり、2000年代以降国道464号沿道に企業の研究所や物流センターの進出が目立つなど開発が進んだが、農村と都市が共存する街づくりが行われていた。
地形
村内の河川・湖沼
隣接する自治体
沿革
行政
- 村長 - 五十嵐勇(四期目、2010年2月8日〜2010年3月22日)
- 歴代村長
- 岩井泰一(初代:任期不明)
- 荻原栄一(1970年4月20日〜1986年4月19日)
- 眞島八十八(1986年4月20日〜1998年4月19日)
- 五十嵐勇(1998年4月20日〜2006年4月19日)
- 小川利彦(2006年4月20日〜2009年12月27日)
- 小川孝之(2009年12月28日〜2010年2月7日 村長職務代理者 総務課参事)
- 五十嵐勇(2010年2月8日〜2010年3月22日)
市町村合併
要約
視点
印西市・白井市・印旛村・本埜村の2市2村の合併が検討され、2003年4月1日には「印西市・白井市・印旛村・本埜村合併協議会」が設立されていたが、2004年7月の白井市で行われた住民投票で反対票が過半数をしめ、合併計画は白紙となった。詳細は、北総市を参照。
2006年、小川利彦が印西市・印旛村との合併推進を公約に掲げて村長選挙に出馬し、初当選。
印西市・印旛村・本埜村の1市2村の枠組みで、市町村の合併の特例等に関する法律(新合併特例法)の期限である2010年3月末までの合併に関する話合いを行うために、2008年10月に印西市・印旛村・本埜村合併問題懇談会が、2009年1月9日には合併協議会が設置された。
合併の期日は2010年(平成22年)3月23日、合併方式は印西市に印旛村・本埜村を編入する編入合併、新市の名称については「印西市」とすることで、合併申請が行われ、2010年3月5日総務省告示第73号で合併が決定した。
合併に至るまでの経緯
上述の合併合意後に、小川利彦前村長が「現時点で合併の必要を感じていない」などと発言し、実現性が不透明な状態となった。
その結果、小川は当初は合併推進を掲げて当選していたことなどから、公約違反などとして村議会と対立。村議会が2009年10月に村長不信任を決議する[2]と、小川はこれに対抗して議会を解散。同年11月23日の出直し村議選では、定数8名のうち反村長派7名が当選した。その後、村議らは地方自治法に基づき議会の招集を求めたが、小川がこれを拒否。現職村長が法律に反する異常事態に行政は混乱した。この状況を受けて住民が小川の解職請求を行い、12月27日の住民投票(投票率60.98%)では9割弱の賛成多数となり、小川の失職が決定した。
小川の失職を受け、本埜村(村長職務代理者)と印西市・印旛村は県に合併申請を行った。
一方、法律に基づく小川の失職により、2010年2月2日に出直し村長選挙が告示、2月7日に投開票が行われることが決定した。3月23日に上記の合併が実施されるため、新村長の任期は43日間である。小川の失職が実現したことで、この村に行政に関する目立った争点は存在せず、小川を失職させた村民は、「何を基準に投票すればいいのか」「税金の無駄」と発言。村議は「選挙をやる意味があるのか」「村長の職務代理者を置く現状のまま合併すべきだ」と不法対応を主張した[3]。
出直し選挙には失職した小川は出馬せず、元村長の五十嵐勇が当選。投票率は55.52%と村長選では異例の低さであった[4][5]。
以上のことから、
- 出直し村議選で約360万円
- リコールの住民投票で約400万円
- 出直し村長選で約300万円
と、3ヶ月足らずのうちに1,000万円を超える税金が本埜村選挙のためだけに費やされた[6]。
新村長の五十嵐は「本埜村民の名誉を回復させる」と標榜。43日間の村政のために7つの公約を掲げ、これにより予定通り合併が行われた。
姉妹都市
教育
小学校
中学校
交通
村内に鉄道は通っているものの駅はなく、バスも本数が少ないため車社会の傾向が強い。また、千葉ニュータウンに位置する印西牧の原駅周辺(滝野地区)では、ベッドタウン化により都心方面への通勤客も多い。
道路
鉄道
観光
旧村是
- 農作法ヲ改良シテ其産額ヲ増加スル事
- 餘業ノ種類ヲ撰擇シテ之ガ普及ニ勉ムル事
- 共同販賣売買ヲ爲ス事
- 基本財産の増殖ヲ圖ル事
- 勤倹貯蓄ヲ奬励スル事
村歌
- 千葉の縣(あがた)の北の方(かた) 音に聞こゑし印旛沼 因みも深き印旛郡 其名も高き本埜村
- そも我が村の沿革(なりたち)は 明治の二十二年頃 本郷埜原のニヶ村が 組合村治(そんぢ)を起こしつゝ
- 二十四年の年月を 互いに肝膽相照し 人も羨む鴛鴦の 只夢の間ま過ぎにけり
脚注
関連項目
外部リンク
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