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大相撲の行司 (1912-1984) ウィキペディアから
26代 木村 庄之助(にじゅうろくだい きむら しょうのすけ、1912年1月2日 - 1984年3月27日)は、大相撲の立行司の一人。本名は浅井 正(あさい ただし)。木村庄之助としての在位期間は1973年1月~1976年11月。井筒部屋→君ヶ濱部屋所属。
愛知県幡豆郡豊坂村須美(現在の額田郡幸田町須美)出身[1]。
21代木村庄之助の弟子で、1919年5月式守正の名で初土俵。その後、式守邦雄を経て5代式守与之吉から6代式守勘太夫を襲名。1966年9月に立行司に昇格、22代式守伊之助襲名。1973年1月26代木村庄之助襲名。 1976年11月停年退職。伊之助を38場所、庄之助を24場所、計62場所立行司を務めた。立行司在位数は停年制実施後27代庄之助の102場所に次いで第2位である。
立行司としては、大鵬と北の湖の両横綱を捌いた唯一の行司であった。
22代伊之助時代の1969年(昭和44年)3月場所2日目に、前頭筆頭戸田(後の羽黒岩)-横綱大鵬戦を裁いた。戸田が大鵬を押し出したが、その前に戸田の足が土俵を割っていたとして大鵬に軍配を挙げた。しかし物言いがつき、協議の結果(春日野審判長を除く4人の勝負審判全員が戸田有利とした)、行司差違えで戸田の勝ちとなった。当時45連勝中の大鵬の連勝はこれでストップした。
翌日、新聞各紙の写真で、戸田の足が大鵬よりも先に出ていることが確認され、大鵬の連勝がストップしたことから「世紀の大誤審」として問題になった。この勝負が契機となり、相撲協会では勝負判定の際、ビデオ(NHK撮影のもの)を参考にすることになった。
同じく伊之助時代の1972年(昭和47年)3月場所7日目、横綱北の富士-前頭筆頭貴ノ花戦、12日目の大関大麒麟-関脇長谷川戦の二番において差し違えた。二番とも取り直しの方が妥当と思えるような相撲だったが、13日目の朝相撲協会にさっさと辞表を提出、場所前25代木村庄之助が廃業したこともあり、当時立行司不在の場所は前例がないため、慌てた協会は「辞めることはない」と1日の謹慎処分とし、14日目から再出場した[2]。
現役最後の一番は1976年(昭和51年)11月場所千秋楽、北の湖-輪島の横綱相星決戦。
明治生まれ最後の相撲協会員でもあり、26代木村庄之助の停年で明治生まれの相撲協会員は1人もいなくなった。
停年後まもなく、第27回NHK紅白歌合戦にて、村田英雄の「男の土俵」という曲の間奏部分に登場し、村田に勝ち名乗りを上げた。また同じく停年後、NHKテレビの「お達者くらぶ」という番組にゲスト出演し、生涯で最も印象に残っている一番として、大鵬-戸田の取組を上げ、「戸田の足が出ていることが確認できたので、自信を持って横綱に軍配を上げた」と語っている。この番組では、当時の取組のビデオフィルムも公開され、この取組が誤審であることが改めて確認された。
1976年、幸田町の名誉町民第1号として表彰された[1]。停年後、週刊誌の「角界浄化キャンペーン」で元行司の立場から八百長問題を証言した。
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