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1800-1856, 江戸時代後期の画家、美術史家 ウィキペディアから
朝岡 興禎(あさおか おきさだ[2]/こうてい[3])は江戸時代後期の旗本、画家、美術史家。狩野派(江戸狩野)の一族で木挽町狩野家出身。江戸幕府小納戸、絵番掛。『古画備考』の著者として知られる。
寛政12年(1800年)江戸木挽町屋敷(中央区銀座五丁目15番9号、時事通信ビル南西角)に狩野栄信の次男として生まれた[3]。幼名は三之助で、後に三十郎と称した[4]。初名は信義[2]。
文政2年(1819年)9月兄狩野養信・父栄信と多摩川の地形調査を行い、「江戸名所真景」を制作した[5]。文政2年(1819年)12月24日旗本朝岡興邦の養子となり、文政3年(1820年)9月1日幕府の公認を受け[4][6]、三次郎興禎と名乗った[6]。
天保元年(1830年)改元翌日の12月11日に小納戸、16日布衣を命じられ、三次郎と改称し[4]、徳川家斉の身辺雑務に従事した[7]。天保2年(1831年)9月4日絵番となった[4]。天保4年(1833年)頃二の丸松平斉善[8]住居表居間北入側下方杉戸表に松竹梅、裏に亀に乗った福禄寿を描いた[4]。
天保4年(1833年)3月28日養父興邦が死去し、6月3日家督を継ぎ、武蔵国都筑郡内550石を相続した[9]。天保5年(1834年)2月10日木挽町の屋敷が類焼し、13日表六番丁通(千代田区三番町18,19番地[10])に転居した[11]。
天保8年(1837年)4月2日家斉が家慶に将軍職を譲って西の丸に隠居すると、これに従い異動した[11]。天保9年(1838年)11月29日表六番丁通の屋敷を小林甚五左衛門に売却し、小林鎌三郎から裏六番町通の屋敷(四番町5番地6と4の間、日本テレビ四番町ビル1号館東隣[12])を購入した[11]。
天保10年(1839年)1月本丸能舞台奥表の小地取を制作した[13][14]。天保11年(1840年)3月家斉[14]が生けた白桃と紅牡丹を写生したが、桃は形が悪く、牡丹は色付けがないとして兄養信が描き直した[13]。7月西の丸楓の間用の松竹梅三幅対を制作し、8月家斉描きかけの「牛久沼富士図」を下絵に認めた[13][14]。
天保12年(1841年)1月30日家斉が死去すると[11]、3月23日本丸小納戸に復帰し[13]、徳川家慶に近侍した[11]。7月10日新座敷上段小襖の制作を命じられ[13]、10月江戸城大奥小座敷の泥引を手伝い、絵具・猪口を賜った[15]。
天保14年(1843年)4月兄と家慶の日光社参に随行した[11]。天保15年(1844年)5月10日本丸が焼失し、再建に当たり、雁の間小襖に「朝鮮持渡鷹」「波に千鳥」を制作した[16]。弘化3年(1846年)2月甥泰善と別の朝岡家との養子縁組を仲介した[17]。
嘉永5年(1851年)8月14日退勤して寄合に入った[9]。嘉永6年(1853年)3月27日退職して隠居料300俵を賜り[9]、29日剃髪して三楽と号した[18]。
安政3年(1856年)、4月27日『古画備考』を実家の甥狩野雅信に託して死去し、四谷全勝寺に葬られた[19]。仏号は白峰院幽水三楽居士[9]。墓は明治には荒廃し[20]、下高井戸龍泉寺墓地に合併されたともいうが[21]、現在いずれの寺にも確認できない[12]。
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所蔵 | 年代 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
春秋田園風俗図屏風 | 紙本着色 | 六曲一双 | 各隻156.2 x 350.5 | 東金市長管理、城西国際大学水田美術館保管 | 若年[22] | 曽祖父狩野典信筆「春秋景物図屏風」(霊鑑寺所蔵)の図様を転用する[22]。興禎が家庭教師を務めた大名家[23]、東金の豪商川嶋家を経て、2000年(平成12年)5月東金市に寄贈された。2008年(平成20年)3月31日市指定文化財[24]。 |
江戸名所真景 | 紙本淡彩 | 26.1 x 36.7 | 東京国立博物館 | 文政2年(1819年) | 9月11日兄養信・父栄信と多摩川の地形を調査した際の図[5]。 | |
高野大師行状絵詞 | 紙本墨画 | 一巻 | 40.5x1,530.03 | 東京国立博物館 | 天保9年(1838年)8月下旬 | 王子金輪寺所蔵「弘法大師行状絵詞」の模写[13]。甥次郎三郎との共作[25]。 |
梅月図(月梅図) | 紙本墨画 | 一枚 | 133.9x56.7 | 東京国立博物館[26] | 天保6年(1835年)夏[27] | 陸復原画[28]。『増訂 古画備考』口絵。 |
物売図 | 紙本淡彩 | 一幅 | 26.1 x 36.7 | 東京藝術大学大学美術館 | 文政11年(1828年)6月1日[29] | 風車等の玩具の物売りを描く[30]。 |
岩鷹図 | 絹本着色 | 44.8 x 64.8 | 個人 | 嘉永元年(1848年)11月14日 | 公家のために描いた席画[31]。 |
幼くして木挽町狩野家一門の絵師集団の中で英才教育を受けたが[5]、兄狩野養信と比べて自身の才能に限界を感じ、兄の補佐や鑑定の仕事に向かった[33]。読書を好み、臨模を得意とし、人から絵の鑑定を頼まれると、必ずその絵と落款を影写・保管した[2]。寡黙で人との会話を好まず、大酒を飲んだ[34]。
番町の自邸には画材のため乙女椿を植え、天保5年(1834年)3月13日来訪した中山養福が写生図を残している[35]。書画鑑定家檜山坦斎に師事し、前田夏蔭に歌道を学び、古藤芝山・成島筑山と交流があった[36]。
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