中国の家具
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中国の家具(ちゅうごくのかぐ)では、中国の家具について述べる。特に明清代の明式家具[1][2][3][4](みんしきかぐ)または明清家具[4][5](みんしんかぐ)は中国美術にも数えられる[5]。
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明清以前
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中国古典には当時の家具の名が散見される。例えば『論語』には
後漢の辞書『釈名』には家具名が列挙されており[10][11]、席のほか
中国考古学においては、戦国楚の大型の牀(信陽長台関楚墓)や[14][15][13]、孔子が描かれた前漢の屏風(海昏侯墓)[16]などの出土例がある。画像石の画中や[12][17][8]、副葬品の明器(生前の品のミニチュア模型)にも[18]、家具が見られる。
イスの出現
高足のイスやテーブルが一般的になるのは、唐代からである[7][15]。唐代より前は、上記の牀などに席を敷き、
以上の座具・座法は儒教の礼とも関わり[19]、宋の朱熹『跪坐拝説』、清の王鳴盛『箕踞』や趙翼『高坐縁起』、大正日本の藤田豊八『胡床につきて』などで古くから考証されている[20]。
明清
明清は中国家具の最盛期とされる[21]。とくに明から清初の家具は「明式家具」と呼ばれる[2]。明式家具は、「唐木」「銘木」として知られる鉄刀木(タガヤサン)や黄花梨(ローズウッドの一種ニオイシタン)などの硬木を基調とし[1][22]、釘を使わずほぞ継ぎで接合され[1]、装飾を廃した簡潔の美を特徴とする[2][3]。一方、清中期以降の「清式家具」は、明式家具を継承しつつも、装飾の華美や[3][23][24]マホガニーの多用[24]を特徴とする。
明式家具の生産地として、明末清初の北京・蘇州・徽州・揚州・広州などがあった[2]。時代背景として、商品経済や工業の発達[25][1]、海禁緩和による東南アジア産木材の輸入[25][1]、園林建築の流行[2][26]などがあった。明式家具は文人の書斎を演出する役割も担った[21][1][27]。
明式家具が登場する文献として、『金瓶梅』[27]『長物志』[25][28]『雲間拠目抄』[29][30]、魯班に仮託される明の木工技術書『魯班経』[29]などがある。
現代では上海博物館などに明清家具の所蔵がある[21]。明の王錫爵墓・潘允徽墓などの出土例もある[29]。
明清の家具名として、榻[31][26]・羅漢牀[12][31]・圈椅[32]・太師椅[26]・天然几[26]・屏風[33]・架格(たな)[31]・炕卓[32][14](オンドル上のテーブル)などがある。
ギャラリー
日本語解説つきの図版集(美術全集)として 王ほか 1996 がある。
- 明式家具
- 明式家具
- 明式榻
- 明代墓の副葬品(明器)
- 清式家具
- 清式ベッド
近現代
清中期から清末民初にかけて、中国家具は徐々に西洋化した[34]。『点石斎画報』には清末の家具の姿が見られる[35]。
民国期の北京では、家具デザイナーのグスタフ・エッケが中国家具を収集して書籍化し、北欧家具のモダニズム様式に影響を与えた[36]。
現代中国の家具企業には、国内首位の欧派家居[37]などがある。IKEA[38]やニトリ[39]など国外企業も進出している。家具デザイナーの顧永琦や朱小傑は、明式家具をもとにした家具を手掛けている[34]。
日本への伝来
他の中国文化とともに、床(牀)などの家具も日本に伝来した[40][41]。正倉院の宝物には、聖武天皇の「御床(御牀)」がある[12]。しかし、名称の意味が徐々にずれ、床は「ゆか」「床の間」を指すようになった[40][42](経緯は諸説ある[43])。
脚注
参考文献
関連項目
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