顧憲成左遷され、その後再び中央に挙げられ、官位は吏部文選郎中まで達する。万暦22年(1594年)に皇帝の長子をすぐに立太子するよう痛烈な意見書を発表して王錫爵ら政府首脳を批判(国本問題)、それが斥けられたことを理由として同志とともに辞職して故郷に帰る。万暦26年(1598年)から恵山第二泉で講学に励み、
陳継儒醇、号は眉公・麋公。董其昌の親友として知られる。 松江府華亭県泖橋(現在の上海市金山区楓涇鎮)の人。書は蘇軾・米芾などに師法した。またその文才は王錫爵・王世貞らに推賞されるほどであった。29歳の時に崑山に草庵を建て隠遁し晩年は東佘山に隠れた。度々宮廷から招聘されたが生涯仕官することなく、文筆をもっ
明史王図(劉曰寧)・翁正春・劉応秋(子同升)・唐文献(楊道賓・陶望齢)・李騰芳・蔡毅中・公鼐・羅喩義・姚希孟・許士柔・顧錫疇 列伝第一百五 - 王家屏・陳于陛・沈鯉・于慎行・李廷機・呉道南 列伝第一百六 - 申時行(子用懋・用嘉・孫紹芳)・王錫爵(弟鼎爵・子衡)・沈一貫・方従哲・沈㴶(弟演)
管志道仕扱いとなる(従ってその後の処分は存在しなかったことになる)。その後、管志道と親しかった王錫爵が内閣首輔に任じられたことで官界復帰の道が開け、実際に万暦19年(1591年)に広東按察司僉事に任じられるが、王錫爵が国本問題で東林党の批判を受けて政治力が失墜すると万暦20年(1592年)に赴任すること
祭文 (漢文)雑記類、箴銘類、頌賛類、辞賦類、哀祭類の13種に分類している。 ^ 荘天全や温純、王錫爵、于慎行などによって祭文が書かれた。それぞれ『荘学士集』卷六「祭馮老師大宗伯」、『温恭毅公文集』卷十六「祭大宗伯馮用韞公文」、『王文粛公文草』卷十二「祭馮琢庵文」、『穀城山館文集』卷三十一「故大宗伯琢吾馮公誄有叙」に収載されている。